風鈴

猫 サイエンス 哲学

距離感

離れていても、窓から見える隣の実験棟の白い壁にとまっている黒い点はセミであるとすぐに気づいた。5階部分くらい。随分昇ったものだなと、感心する。開かない窓枠、厚い壁に阻まれてその声は聴こえないけれど。

昼間所用があり、実験棟から外に出て、敷地内のほぼ端から端までを歩いた。5分ほどかかるその道程を、散歩するようなこころもちでふらり、ふらり。
働いている人たちと多くすれ違う。草を刈るひと、枝を切るひと、ゴミ処理をするひと、守衛所に詰めるひと。それぞれがそれぞれの持ち場をこなすことを生業としている。様々な生業を持ち寄ってここのシステムが成立している。発生する雇用。雇用を賄う収益。収益を還元する仕組み、仕組みを考える人々。気持ちよく仕事ができるのは自分の努力だけではないという当たり前の事が景色としてそこにあった。
コツコツやろう。まずは自分の持ち場をひとつひとつ確実に。そんなシンプルな感想を持ち帰って続きの仕事をした。



これは人によって感覚というか、感じ方の違いがあるだろうし、勿論、自分と相手との関係性にも依存する。私には「この人にはむしろ、ぞんざいに扱われないと気持ちがわるい」くらい気のおけない話し相手がいるし、逆に礼を尽くして細心の気を遣う相手もいる。もしかしたら「自分ならこういう風に気遣ってお返事をする」という在り方が近しい方に安心できるということなのかな。互いが取る距離感の、ちょうど中間地点で話ができる相手、と言い換えてもよいかもしれない。


尚、(ご当人には読まれていないであろうから書きますが)このツイートのきっかけは主にCheruさんを想定していました。Cheruさんはすごいねほんと。


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こちらのblogもようやく少しずつ、積み重なってきた。
他愛のない話を気の向くままに。

霧雨

外へ出たら予定外の霧雨で、会社のロッカーへ置き傘を取りに引き返す。今日は降らないと思っていたのになあ、と歩き出したら、久しぶりの虹。

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若林唯人さんのフリーペーパー『フリースタイルな僧侶たち』(http://p.booklog.jp/book/116387)の第47号にニー仏さんこと魚川祐司さんが寄稿されているということで、拝謁した。
仏教が私にくれたもの』

以前、氏のツイキャスで「瞑想を始める前と後で、どんな事が変わりましたか」と質問したことがある。ニー仏さんは暫し考えてから「言えないな。変わったことは間違いない。だけどそれは言えない」ときっぱりと仰ったのをよく覚えている。
触れるべきではなかったのかな、と申し訳なさを感じながらも、できないことをできないときちんと言葉にしてくれることに誠実さを感じたりもした。そして、あの時言い淀んだ一瞬が、この文章には詰まっているのだろうと感じている。

ニー仏さんが抱えてきた「unheimlichkeit(違和感)」その苦しみは他者が想像或いは共有できるものではないけれど、その思いや過去の断片を知ることができたのは(表現は不適切かもしれないが)嬉しく思えた。今はもう、その状態を受け入れ、呑み込み、問題が解決したのだという現状も併せた上で。



想像できないと言いつつも、思いを馳せてしまう。
彼は「気づきの世界」に生きているのかなと。
この社会システムも人間関係も、いやそもそも「人そのものが」物理的な正解に整合性を優先させるような矛盾の上でかろうじて成立している。矛盾に気づいたとしても組み込まれるしか手立てがない制約の中で、大多数は息を殺しながら生きている。
気づかないでいられたならラクであるかもしれない。気づかないふりをすれば心は死なない。そんな矛盾を他の人より灼然と見透せてしまったのだとしたら。


ひぐらしが鳴いている。
今夜は風が涼やかだ。
夏をどこかに忘れてきたかのように。

憂いの風が吹いている景色を眺めていた。
何の具体性もない。けれど与えられた固有名詞と現象を結ぶ文脈の内側に、読み手の感情を組み込んでそれは成立する。ひとつの物語として。
彼の文章には、いつもそれを感じる。
何かを明示するのではなく、自身を映す濡れた鏡のよう。

抽象概念を共有化するにはどうしたらよいか、ということについてよく考える。
直示的に伝えればそれは具体性をもち、たちまち「其れは此れ」になってしまうだろう。
喩え話がよいだろうか。
「宇宙のように混沌とした日常だよ」とか。
我々は宇宙の混沌を知らないというのにね。

今朝は何となく予感がして、家を出る直前に傘を手にとった。正解。夏らしさを含んだ重たい雨に出逢う。
いつもみずたまりができる歪んだアスファルトが整備され、味気のない、けれど緻密な計算と技術を詰め込んだコンクリート素材に塗り込められて撥水している。塊であるか、ちりぢりでいるか。そんなささやかにみえる違いが私達の生命すら左右する場合もあるのだよな。
整備されてなおも遺されたささやかなみずたまりに映る景色を眺めながら歩く。
厚い雲に覆われ降り注ぐ雨を映しているはずのそこには、星空に似た景色があった。
これもまた濡れた鏡、だ。

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帰ろう。おうちへ帰ろう。

透明じゃない。

前髪を切った。
切りすぎて、幼さを感じさせる長さ。眉を心持ちキリッとさせてバランスをとる。

売店で購入した麦茶のペットボトルをうっかり落としたら思いのほかコロコロと転がっていってしまって慌てたのだけれど、通りがかった幼児の「パパ、あのひと、だーっておとしちゃったねえ」「そうだねえ」という会話が聴こえてきたのでちょっと恥ずかしく、ちょっと和んだ。
麦茶は焼きすぎた肌のような色をしたまま泡立ち、追いかけた私の掌に触れた。

自分が見知らぬ誰かの認識の中にいることがわかるというのは不思議な感覚がある。誰かと目が合ったりよけられたり話しかけられでもしない限り、私という存在が誰かの認識の中にあるということを知るのは難しい。他人しかいない雑踏の中で基本的に私は透明だ。でもそれは、「私が」感じる透明さであって、他者から見た私が必ずしも透明という訳ではない。幼児は私を認識することで「他人という境界」を超えて「私にも幼児を認識」させた。あの瞬間は確かに、透明じゃなかったんだ。あの子も、そして私も。

あの幼児が最近覚えたであろう「物を落とす」という認識の強化に赤の他人である私が関わっているということも、何だか面白かった。
今日帰宅して、あの子は家族に「だーっておとしちゃった」出来事の話をしたりするのだろうか。
そんな空想しながら微笑んでしまうんだ。

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明け方、自宅のお手洗いの窓にセミがはりついていた。鳴きもせず、動きもせずに密やかに。そうやって朝を待っているのでしょう。

尊厳

穏やかないちにち。
山道を下り駅に向かう途中に見つけた草花や虫の写真を撮り歩き、知らないものについては名前を調べ、特に興味深いものについては生態や生息の仕方についての情報も得る。掌に載る図鑑は今のところ、深追いさえしなければその場に在りながら大抵のことを教えてくれる。スマートフォンはヒトの頭脳とその機能を拡張するデバイスであるという見解に賛同する。これは間違いなく、進化のための鍵のひとつだ。

ランニングのためのTシャツを2枚買い足す。
徹底的にシンプルで地味な色ばかりを選んでしまう。
読みさしだった実験医学の続きを読み、学会報告を出す前に読んでおけばよかったと思うような記事がひとつ。学びについてもう少し先手を打ちたい。




Twitterでお見かけした、ももさんという方の「老犬を看取る」というまとめがあまりに素晴らしく、しばらく言葉が出なかった。尊厳をもって接するということがどういうことなのか、信頼を寄せ合いながら最期を迎えるとはどういうことなのか。自分にとって1つの形が示されたように思えた。
順当にゆけば、私よりも共に暮らす猫たちの方が先に旅立つ。そう遠くない未来のことだ。その時、どのようにあるべきか。受け止める準備をしておきたい気持ちがどこかにあるのかもしれない。
2013年に母が亡くなったときはあまりに突然で、何の心の準備もなく、悔やむことが多かった。そのせいもあるのだろうな。
この事については、まだもう少し落ち着いて考えよう。


認知の歪みとは認知の正誤ではなく「発信側が意図していないような意味付けをもって解釈する」という事であると、巧く伝えられなかったのは残念だった。伝える事ができないということ自体、もう既に彼に対して歪んだ認知が私の中にあるということなのだよな。コミュニケーションは勇気、コミュニケーションは勇気・・・

眠くてまとまらなくなってきました。
もうそろそろ、眠りましょう。

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山はもう、秋の準備を始めているんだなあ、と思った一枚。

衝動と距離

凄まじい雨。
大きめの傘は持っていたけれどこの激しさでは雨粒が傘を突き抜けてしまうかもしれない。水着でなければうまく歩けないだろう。
おとなしく、商業施設の中で雨宿りをした。

鮮やかな夏の花が売られている。
ペットショップではデグーが夢を見ながら体躯をピクつかせている。
セールの赤い札が隅に追いたてられ、秋色が勢力を拡大している。
桃はまだ値下がることを知らないまま甘く香る。
バス待ちの列は誇張でなく、いつもの3倍は長い。



破壊衝動が最後に沸き上がったのっていつだったろうな。中学生の頃だろうか。平凡かつ繰り返される日常に退屈さを感じ、乱世の頃に生まれたかったなどと思い上がっていた。根拠のない万能感と自信に溢れていた。世界との距離をうまく測れていなかったということが、今ならわかる。これからもっと何かがわかるようになるだろうか。わかるためにはわかるための勉強が必要だということはもう充分すぎるほどわかったつもりになっているのだけれど。足りない。足りることはないのだろう。

大人になるということについて未だよく理解できていないけれど、外へ向かう衝動を上手に内側に閉じ込める手段をひとつ獲得するごとに、ぼやけていた自分の輪郭を内側からなぞるような感覚を得てきた。自分というものを定めるほどに、世界との距離は離れてゆく。


かつてそれは、ひとつだった。
知識を得るということは、世界の分画の仕方を学ぶことに等しい。
渾然一体だった世界のひとつひとつにフォーカスして解像度を上げる。それらを素粒子レベルにまで分解したら、そこから先に現れるものは固有名詞をもつ物質ではなくなる。規則性をもった材料の並列化。もっと細分化したら規則性すらなくなるのだろうか。そうして世界は再び、ひとつになる。私はそれを見たいんだ。


雨はやまない。
なりふり構わず走り出して空を見上げたい。
そんな衝動を飼い殺しながら、私はまた自分の輪郭をひとつ定める。

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オオスカシバの成体を見た。
美しく、可愛らしい虫だった。
1週間前に幼虫後期の糞を見かけたので、近くにいるかもしれないという期待を込めて探し、予想通り見つかったことも嬉しかった。
名前を知らない頃は、クマバチと見分けがついておらず、私が認識していなかっただけなのかもしれない。そのくらい自然に、自然と、飛んでいた。
オオスカシバ。
美しい虫。

眠りの前

15分くらい寝てからふと目が覚め、時間を見ようと手に取ったスマホの明かりを浴びたら寝つけなくなってしまった。おとなしく横になったまま、考えることを追い払い、脚先から頭方へ向かって身体のパーツごとに順番に、力を入れて抜くことを繰り返してゆく。脳内には眠りのための音楽(one day diary『30 Minutes 4 Sleep 』)を呼び戻し、意識的に深呼吸して。

眠りに落ちる音は聴いたことがないけれど、甘い痺れのような予感は時々感じる。
今から眠るな、という感覚。
普遍的描写を借りるなら、うとうと。
身体の中心部にある軸が微かに振動して揺らぐようなあの感覚も音楽のように自在に呼び戻すことができたなら、いつでも眠りに落ちることができるのに。

短く深い眠りと覚醒を数回繰り返し、意外とすっきりとした朝を迎えたことはせめてもの救い。電池が切れる前に仕事をしよう。