風鈴

猫 サイエンス 哲学

読んでは忘れ。

映画が苦手です。定められた期間、集中していなければならないし、情報の受動と理解と解釈のスピードを自分でコントロールできない。視覚と聴覚を経由する強い刺激も得意ではありません。映画のみならず、動画やテレビ番組もつきあい以外で観ることはほとんどないですね。情報を入手するルートに偏りが生じています。テキストは好き。テキスト形式であるならば刺激的な内容であっても解毒処理できる機能をもっているようです。毒にも薬にもならないテキストも読みます。食べ物を食べながらパッケージに書かれている文章を全て読み即座に忘れ、ファッションブロガーの記事を読んでは忘れ、ツイッターを開いた10秒後に閉じたりもします。中身がないものから何かを見出だそうとするとすると、連想ゲームを始めるか、あるいはググラーになることが手っ取り早い対処方法になりますね。知らない用語が出てくる度にググり、なかなか先に進めない代わりに物知りになれたりします。検索関連で最近面白かったのはスキャロップパールとバブーシュかな。とにかくそんな感じでG.W.をやり過ごしています。G.W.を人生に置き換えても違和感がないかもしれません。何気なく過ぎてゆく日常を脳内に留めようとするならば記憶を手繰り寄せて感想戦をやるか何らかの記録媒体を参照することになるかと思います。手懸かりさえ掴めれば記憶の糸を手繰ることが可能になる。ところでどうして「記憶の糸」なんでしょうね?シナプスのイメージなのかな。とにかくスマホのログを見返さなければ自分が何を検索したのかすら覚えていない。そんな日常。

日中の人混みを避け、20時を回った辺りからまだ開いているドラッグストアやスーパーに繰り出すことがままあります。夜風はいつの間にか初夏の香りを含み、先日までは見かけなかった花を咲かせ、ツヅレサセやヒメコオロギなどの鳴き声が足元から密やかに立ち昇る。季節は変わらず廻ることに不思議な気持ちがあり、いや逆に季節が廻らないことに翻弄され死を迎える過去もあったろうなという思いに至り。不要不急と要急用の違いに上手い線引きができないままに夜の街を歩くのです。生きてゆくために要らなさそうなものを求め、求めたからには必要ということなのかもしれない。そんなことを思いながら、今夜も手に取った食べ物のパッケージのテキストを読んでは忘れるのです。