風鈴

猫 サイエンス 哲学

慣れ

誰かが離れていくことに対して慣れすぎてしまった。哀しいという気持ちはなく、「ああまたか」と思う。当然の作用のようにそれは起こりうるべくして起こったのだろう。


一貫して「去る人は追わない」というスタンスなんだけれど、私にとってのそれは相手の意志を尊重するためではなく、自分の弱さを守るための行為であることを痛感してしまう。「来るもの拒まず」も全然できない。

何度も書いてきたことだけれど、度量が大きい人になりたいというよりは、通過点のようなものでありたいというきもちがある。何も足さず何も引かない。増幅もせず減縮もない。ただ一切は、私の中を流れて出ていくような。
そうなってゆきたい。

こんな風に行動に移せてもいないような願いを口にする行為、せめて言葉に変えてこの世に顕現させたいという気持ちの表れなんじゃないかと思う。

丸井の屋上で買い弁を食べながらぼんやり過ごした。蜜蜂やハナアブが代わる代わるベンチ近くの花の蜜を集めてはせわしく飛び回るのを眺め、スマホタイムシフト撮影したりした。たまたま映り込んだ排泄する瞬間をYouTubeにアップしてみたりもした。それから神保町へ移動し、アンドレ エレの絵本を探した。目当ての本は見つからなかったけれど、圧倒的な歴史と当時の空気を閉じ込めたまま雑多に陳列される古本に囲まれていると自分の矮小さがどうでもよくなり、いつの間にかその歴史に呑み込まれていくように思えた。