風鈴

猫 サイエンス 哲学

我欲の罠

思い返せば、これまで去る者は追わないという行動が、リアルでもTwitterでも、自分がとってきた唯一の選択だった。


「縁を切る」というその人の意思決定を尊重する気持ちもあるし、私自身の自尊意識もある。あとは何より、追いかけるほどに去られたことに対する傷が深まるように思えるのだった。


傷の大きさは大抵、自分の思い入れの軽重に相関性をもつ。大切だと感じていた相手から(様々な事情があるとはいえ去られたとき)自分が思うよりも自分は大切に思われていなかったというひとつの推論にたどり着き、哀しみを感じてしまうということなのかもしれない。


どのような関係性であれ、心を寄せる重さを量ることは不可能であるし、全くの同等であることなどほぼあり得ないと考えている。それでも、いやそれだからこそ、相手に対する期待は具体的な重さを量られることなく心に浸積し、相手の存在と分離できない感情としていつしか生着してしまうのだろう。


最初から相手に対して期待/執着しないように接することが心の自衛手段として最善手であることを、経験則では知っている。しかしそのような在り方をするりと抜けてくる魅力的な人がいる。そういう相手と相互作用し続けるのは幸福であると知っているが故に嵌まる我欲の罠なのだと自分では感じている。

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埋める

静かに命を命に変えてゆくカラスを見た。明け方の街。
カラスが鳴き声で仲間を喚ぶというのは本当なんだなと思ったりした。

何故か今日いちにちを通して、死のテーマが話題にのぼることが多い。
相互連関のない関係の死は無に近いのにコンテンツにしてしまえるほど無邪気に語れはしない。素通りできずに目を向けて、目を伏せる。そんないちにちだった。


中間面談で「もうちょっとイケるので業務量増やしても大丈夫ですよ」と言ったらえげつない増えかたをした。圧倒的感謝。つらい、けど、つらいと言いながら生きていたい。仕事に追われていると生きている感じがする、と以前何処かに書いたけれど、今でもそう思っている。追い立てられたい。人生の密度を高めたい。圧縮して詰め込んでぎちぎちに濃く生きて、いつでも後悔しないように終われたら。
虚しさを感じたくないというある種の欲が、私の人生を駆り立てる。何かを遺したいのではない。私が何かを埋める代わりに何かが私を埋めてくれる、Give and takeの循環を生きている。

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拡げつつ閉じるということ。

彩度の低い朝。
ここ2日ばかりは街が美しく色づいて見えたので、明け方の金星を思い出しながらのそのそと起き出してみた。
猫の耳に薬を滴下する。
膝の上で円くなった猫は、尻尾の毛繕いをはみ出して私の脚も少しだけ舐めてしまう。ざらざらり。
糸状乳頭というネーミングは不相応なのではないか。鮫肌乳頭に改名しようよ。ワサビもおろせるはず。


何か物事を判断する際に関わってくる重要な構成は大まかに分けると3段階あると思う。
根拠となる素材、素材を組み立てる手法、そこから導き出される結論。
「了見が狭い」という表現があるけれど、「了見」はこれらの構成のうち全てに深く関与する。そして了見を拡げるためには適切な「学び」が必要なのではないかと私は考えている。


学びのその先にある自由について考えていた。

学ぶことで、未知と既知を区別できることが増えてゆく。そして既知のトピックに対しては解決法や答えをもつことができるということでもあるのではないか。
学びはもちろん学問だけではない。他人、或いは自分自身の心の動きもそうだ。「なぜそのような反応をするのか」「なぜそのように捉えてしまうのか」動きを1つずつ追うだけでは決して理解できない。しかしその原理を知っていれば理解できる事もある。理解できなくてもよいのだと思う事もできる。
そのようなことを。




今でも時々、誰かに伝わることの必要性を疑い、祈りの世界をさまよってしまうことがある。
自己満足以上の満足が、この世界に果たして存在するだろうか?
その思いがどこか抜けきれずにいる。
ただ、少しだけ変化したことがある。自分の中だけで閉じていた論理の環を身近な他者まで拡げつつ閉じることができるようになってきた。
これが好ましい事なのか否かの判断は未だ難しいけれど、やってみようと思うんだ。やり続けてみよう。

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クリスマス・ブッシュを購入した。
白い花が咲き、そのあとに成長したガクが赤く染まるというオーストラリアの木。
星を散りばめたような形。
愛らしくたおやかに美しい真夏のクリスマスを想う。

濁流

布石を打った訳でもなく単なる僥倖に過ぎないのだけれど、物事がうまいこと作用したなと思える出来事があった。おかげでこの場所を静かに保つことができる。
過去に置いてきた言葉は確かに私の内側から産まれたものだけれど、それは成長の記録を綴じたアルバムのようなものだ。私は自分で考えているよりも、「過去より今、この瞬間」を大切に思っているみたいです。

ターミナル駅を通過する。
人の動きがまとまって流れをつくる。泳ぐ?泳がない?この濁流に呑み込まれたら、浮き上がることは難しいだろう。いっそ流されたのなら、何処かに漂着するのだろうか。
この街の高層ビル群の一角には黒い猫が実在している。ビルの箱を開けたことは、未だ、ない。


数多くの都市名が並ぶ訪問者の記録。その殆どは聞いたことはあるが訪れたことのない土地だ。
そこに住む人がいる。
生きて呼吸して時に感情を飼い慣らしながら食べて寝て、そして私の文章を読みにくる。電子に変化し空間を超えた私の言葉を受け取り、その人の生活の一部となる。
何度想像しても不思議さしかない。

本当は知っているはずの人と他人のようにすれ違う大都市も。本来触れ合う筈もなかった世界とクロスしているこの空間も。違えた位相。


コーラン』を読み終えてしまった。異文化の生々しい手触りを遺して。違いを認識することで逆に近づくという反作用が生じる場合もあることを識る。
貧困と不平等と抗えない生まれついての血脈に押し込められた反動は、回教が産まれた理由に少しは寄与したのだろうか。社会もまた、人が作る濁流なんだな。


「何のために生きている?」
そう問われて私は、目的はない。そこにある生を生きているだけと答えた。
かつて、生は選べないのだから最期くらいは自分で選びたいと考えていた。
今では死を、自分では選べなくなっている。
正確には、選択できないという選択をしている。
過去の自分が積み重ねてきた分の人生が追いかけてくるようだね。

ニュアンス

リズミカルに生活している。
4時半起床、7時出社、残業の長短を帰宅後の自由時間で緩衝し、22時半から23時の間に就寝する。
トントン、ターン。トントン、ターン。
まな板を叩くように平日の人生を刻んでいる。
よほどメンタルを崩さない限り、リズムはそれほど崩れない。私のメンタルが崩れにくいのではなく、もしかしたら鈍麻させられているのかもしれない。崩れたら一巻の終わり。


文章を書く愉しさがあるとすれば、それは言葉を自在に操れることではない、と個人的には思う。ああでもないこうでもないと唸りながらも自分が納得できる表現に出逢えるその瞬間の快さを味わいたくて、私はきっとここに書いている。

言葉にはニュアンスがある。けれどそのニュアンスを知らなければ理解も使うこともできない。そんな時、私はとにかくシソーラス(同義語)を活用する。

言葉に含まれる様々なニュアンスは、別のニュアンスを引き寄せて、次々と連結してゆく鎖となる。手繰り寄せれば発見がある。より自分の思惑に沿った言葉を見つけ出すための有力な手がかりとなる。そうやって私は、言葉を貯蓄しているように思う。


現実の運営を自分の中にある倫理とかけ離れることなく実現してゆくことで、私の人生の満足度が上がると何処かで信じている。
自分の中の軸は、少しずつではあるけれど、安定化してきたように思う。焦らず、一歩ずつ、着実に。
筋の通った人生を。

真似

他の人の魅力的だと感じる言動や考え方を意識的に真似てみてる。最初は真似でも、それはいつか本物になる。

目が合ったら微笑むこと。少しずつだけど、できるようになってきたように思う。


Twitterで見かけた、「嫌いな人に対して平等に接するよりも、好きな人に対してそうする方が難しい」といった主旨の言葉に、なるほどと思う。
好きな人に対して好きであると伝わる態度について、私は何の疑問も抱いたことがなかった。
平等に接することが正しい在り方という訳ではないけれど、なぜ「嫌い」は抑制され、「好き」は発露を許されるのかと問われたら、巧く説明がつかないかもしれない。相手を不愉快にさせるか否かでは答えにならない。「好き」を贔屓することで周囲を不愉快にさせる可能性もあるしね。
これはきちんと考えて、自身の態度を決めておきたい考えだなと感じている。


もうひとつのblogに時間軸への干渉をひとつ仕掛けたのだけれど、早々に見抜いた方がいて驚いた。それから、とても嬉しかったな。
探してくれてありがとう。
遊泳の記事は基本的には更新しないつもりなのだけれど、自分としては思い入れが深い場所なので。時々は泳ぎにゆくよ。時々はね(気まぐれ)。

So far, so good.

描く

遅寝の末に早起きしたせいで、目が覚めても覚めきらない休日の朝。布団から出ないための言い訳に、猫たちを呼び寄せてぬくぬくと過ごす。
雨音とのどが転がり鳴らされる音のセッション。




精緻に、或いは乱雑に。具体的に、もしくは抽象的に。カラフルに、モノクロに。使う知識を道具に見立てて。誰かをフォローするということは、その人の描く絵を観賞することである。そんな感覚が私の中にあるように思う。
絵にもツイートにも正解はない。そこに、表現があるだけ。好ましさや理解のなさがあってもいい。ただ存在しているということに、共通点を感じる。
私はどんな絵を描いているだろう。どんな絵があなたに見えているのだろう。


井筒俊彦先生訳の『コーラン』、上・中巻を読了し、下巻に突入している。
信仰と文化が人間の生活、延いては人生そのものを形作るのだという認識を強くする。
価値観のベースとなるものが信仰であり、信仰は共通概念をもつ集合体を形成する。そんな構造を時々忘れて生きてしまいそうになるんだ。
私と他者との尊厳は等しく、優劣はなく、正誤はない。ただそこには違いだけがあるということ。
凡ての人が、自分の絵を描いているということ。


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