拡げつつ閉じるということ。
彩度の低い朝。
ここ2日ばかりは街が美しく色づいて見えたので、明け方の金星を思い出しながらのそのそと起き出してみた。
猫の耳に薬を滴下する。
膝の上で円くなった猫は、尻尾の毛繕いをはみ出して私の脚も少しだけ舐めてしまう。ざらざらり。
糸状乳頭というネーミングは不相応なのではないか。鮫肌乳頭に改名しようよ。ワサビもおろせるはず。
何か物事を判断する際に関わってくる重要な構成は大まかに分けると3段階あると思う。
根拠となる素材、素材を組み立てる手法、そこから導き出される結論。
「了見が狭い」という表現があるけれど、「了見」はこれらの構成のうち全てに深く関与する。そして了見を拡げるためには適切な「学び」が必要なのではないかと私は考えている。
学びのその先にある自由について考えていた。
学ぶことで、未知と既知を区別できることが増えてゆく。そして既知のトピックに対しては解決法や答えをもつことができるということでもあるのではないか。
学びはもちろん学問だけではない。他人、或いは自分自身の心の動きもそうだ。「なぜそのような反応をするのか」「なぜそのように捉えてしまうのか」動きを1つずつ追うだけでは決して理解できない。しかしその原理を知っていれば理解できる事もある。理解できなくてもよいのだと思う事もできる。
そのようなことを。
自分の理論を誰かに理解してもらえるように伝えるためには論理を整える必要性があり、(Twitterをはじめとする様々な媒体に於て)文章を書くことが私にとって何よりも論理的思考の訓練になっているなと実感する。自分の考えがひとに伝わりやすくなったという手応えが増えてきたように思うんだ。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2017年10月27日
『もし言葉以前の純粋概念といったものがあるとすれば、瞬間的な「祈り」のようなものでしかないだろう』というメルロ=ポンティの言葉があるのだけれど、この祈りという内語をそのまま口にしても、自分以外には理解できない論理でしかない。かつての私には、祈りしかなかったように思う。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2017年10月27日
今でも時々、誰かに伝わることの必要性を疑い、祈りの世界をさまよってしまうことがある。
自己満足以上の満足が、この世界に果たして存在するだろうか?
その思いがどこか抜けきれずにいる。
ただ、少しだけ変化したことがある。自分の中だけで閉じていた論理の環を身近な他者まで拡げつつ閉じることができるようになってきた。
これが好ましい事なのか否かの判断は未だ難しいけれど、やってみようと思うんだ。やり続けてみよう。
クリスマス・ブッシュを購入した。
白い花が咲き、そのあとに成長したガクが赤く染まるというオーストラリアの木。
星を散りばめたような形。
愛らしくたおやかに美しい真夏のクリスマスを想う。