風鈴

猫 サイエンス 哲学

濁流

布石を打った訳でもなく単なる僥倖に過ぎないのだけれど、物事がうまいこと作用したなと思える出来事があった。おかげでこの場所を静かに保つことができる。
過去に置いてきた言葉は確かに私の内側から産まれたものだけれど、それは成長の記録を綴じたアルバムのようなものだ。私は自分で考えているよりも、「過去より今、この瞬間」を大切に思っているみたいです。

ターミナル駅を通過する。
人の動きがまとまって流れをつくる。泳ぐ?泳がない?この濁流に呑み込まれたら、浮き上がることは難しいだろう。いっそ流されたのなら、何処かに漂着するのだろうか。
この街の高層ビル群の一角には黒い猫が実在している。ビルの箱を開けたことは、未だ、ない。


数多くの都市名が並ぶ訪問者の記録。その殆どは聞いたことはあるが訪れたことのない土地だ。
そこに住む人がいる。
生きて呼吸して時に感情を飼い慣らしながら食べて寝て、そして私の文章を読みにくる。電子に変化し空間を超えた私の言葉を受け取り、その人の生活の一部となる。
何度想像しても不思議さしかない。

本当は知っているはずの人と他人のようにすれ違う大都市も。本来触れ合う筈もなかった世界とクロスしているこの空間も。違えた位相。


コーラン』を読み終えてしまった。異文化の生々しい手触りを遺して。違いを認識することで逆に近づくという反作用が生じる場合もあることを識る。
貧困と不平等と抗えない生まれついての血脈に押し込められた反動は、回教が産まれた理由に少しは寄与したのだろうか。社会もまた、人が作る濁流なんだな。


「何のために生きている?」
そう問われて私は、目的はない。そこにある生を生きているだけと答えた。
かつて、生は選べないのだから最期くらいは自分で選びたいと考えていた。
今では死を、自分では選べなくなっている。
正確には、選択できないという選択をしている。
過去の自分が積み重ねてきた分の人生が追いかけてくるようだね。