風鈴

猫 サイエンス 哲学

衝動と距離

凄まじい雨。
大きめの傘は持っていたけれどこの激しさでは雨粒が傘を突き抜けてしまうかもしれない。水着でなければうまく歩けないだろう。
おとなしく、商業施設の中で雨宿りをした。

鮮やかな夏の花が売られている。
ペットショップではデグーが夢を見ながら体躯をピクつかせている。
セールの赤い札が隅に追いたてられ、秋色が勢力を拡大している。
桃はまだ値下がることを知らないまま甘く香る。
バス待ちの列は誇張でなく、いつもの3倍は長い。



破壊衝動が最後に沸き上がったのっていつだったろうな。中学生の頃だろうか。平凡かつ繰り返される日常に退屈さを感じ、乱世の頃に生まれたかったなどと思い上がっていた。根拠のない万能感と自信に溢れていた。世界との距離をうまく測れていなかったということが、今ならわかる。これからもっと何かがわかるようになるだろうか。わかるためにはわかるための勉強が必要だということはもう充分すぎるほどわかったつもりになっているのだけれど。足りない。足りることはないのだろう。

大人になるということについて未だよく理解できていないけれど、外へ向かう衝動を上手に内側に閉じ込める手段をひとつ獲得するごとに、ぼやけていた自分の輪郭を内側からなぞるような感覚を得てきた。自分というものを定めるほどに、世界との距離は離れてゆく。


かつてそれは、ひとつだった。
知識を得るということは、世界の分画の仕方を学ぶことに等しい。
渾然一体だった世界のひとつひとつにフォーカスして解像度を上げる。それらを素粒子レベルにまで分解したら、そこから先に現れるものは固有名詞をもつ物質ではなくなる。規則性をもった材料の並列化。もっと細分化したら規則性すらなくなるのだろうか。そうして世界は再び、ひとつになる。私はそれを見たいんだ。


雨はやまない。
なりふり構わず走り出して空を見上げたい。
そんな衝動を飼い殺しながら、私はまた自分の輪郭をひとつ定める。

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オオスカシバの成体を見た。
美しく、可愛らしい虫だった。
1週間前に幼虫後期の糞を見かけたので、近くにいるかもしれないという期待を込めて探し、予想通り見つかったことも嬉しかった。
名前を知らない頃は、クマバチと見分けがついておらず、私が認識していなかっただけなのかもしれない。そのくらい自然に、自然と、飛んでいた。
オオスカシバ。
美しい虫。

眠りの前

15分くらい寝てからふと目が覚め、時間を見ようと手に取ったスマホの明かりを浴びたら寝つけなくなってしまった。おとなしく横になったまま、考えることを追い払い、脚先から頭方へ向かって身体のパーツごとに順番に、力を入れて抜くことを繰り返してゆく。脳内には眠りのための音楽(one day diary『30 Minutes 4 Sleep 』)を呼び戻し、意識的に深呼吸して。

眠りに落ちる音は聴いたことがないけれど、甘い痺れのような予感は時々感じる。
今から眠るな、という感覚。
普遍的描写を借りるなら、うとうと。
身体の中心部にある軸が微かに振動して揺らぐようなあの感覚も音楽のように自在に呼び戻すことができたなら、いつでも眠りに落ちることができるのに。

短く深い眠りと覚醒を数回繰り返し、意外とすっきりとした朝を迎えたことはせめてもの救い。電池が切れる前に仕事をしよう。

休暇

日記らしいblogを書いてみようと思う(自分なりに新しい試み)。
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上司が長靴の中にジーンズの裾を入れるタイプのブーツインしている夢を見た。「お洒落だろ?」ってあまりに得意気だったから「残念ですね」ってつっこめないまま目が覚めてしまった。私も残念である。

有給休暇だったのでずっと気になっていたけど休みの度にやる気が失せて先延ばしにしていたことを片付けた。ひとつはモバイルルーターの解約手続き。もうひとつはコンタクトレンズの処方。前者は結局、8月1日以降に手続きすれば無料だということで再び先延ばしになった。受付の女性が知的な喋り方をするタイプで、つられてこちらも賢そうな喋り方をしてしまう。私は染まりやすいのだ。よくもわるくもわるくもよくも。

それにしても眼科、平日ならすいているかという目論見が外れ、待合室の席が足りないほどの盛況だった。受付を眺めていると8割くらいが眼鏡かコンタクトレンズのために来院している感じ。待機と診察と検査でトータル90分ほどかかったのでやはり平日に来てよかったのかもしれない。休日がこれより速いとは思えない(酸っぱい葡萄)。

ここの眼科はこの混雑に対応するためか、待合室の座席間隔が狭い。真冬にダウンコートを着た乗客同士が押し込められた満員電車くらい狭い。それから検査用の椅子が会社の実験室で使用しているものと同じで親近感と嫌悪感が混在する不思議な気持ちが沸き上がる。しかし今回は椅子が特徴的であるからたまたま気づいただけで、本当はこれまでも床材とか壁紙とか蛍光灯の長さみたいなものが実験室と同じ仕様なのに気づかなかっただけなのかもしれないんだ、椅子のことなんかもう放っておけという心の声を聴きながら検査を受ける。「上です。うーん、右?わかりません」
右0.15、左0.2。乱視から近視に昇格?した。コンタクトレンズの金額が少し安くなるのはありがたい。

帰りにスターバックスに寄った。
たぶん5年ぶりくらいにフラペチーノを注文したのだけれど、提供できるまであと30分くらいかかると云われたので結局いつも注文するチャイティトールサイズオールミルクエキストラホットの呪文を唱える。フラペチーノの対極感ある。

昼ごはんを食べ損ねたので、おやつにTwitterでみかけた禁断のレシピをついに実現してしまった。
今回はキムラヤさんのノーマルタイプで試してみたけれど、チーズ蒸しパンで是非ともやってみたい。

悪くない休日。

淡々

恋人とお別れしたばかりのフォロワさんがTwitterで随分荒れていた。おひとりの頃も、付き合い始めた頃のしあわせそうなツイートも経時的に見てきていたせいか、私までやや感傷的になってしまった。
周囲には「大丈夫、すぐに次ができるよ」と励まされていたらしく、「次なんて考えられない、一生できなくていい」と答えていた。その気持ちがいつかの自分と少し、重なった。

人間の悩みの種類は大体同じだし多くの人生で繰り返されてきた感情の焼き回しにすぎないのに、それぞれの人生に対して新鮮な痛みとして与えられる。解決策が気休めに痛みを漸減し、時が感情を希釈するけれど、我々の中に蒔かれた小さな種はそこにいつまでもとどまり続ける。感情については、痛みを感じにくくなるような方向への進化はしないということなのかもしれない。その事に何らかの意味があるのかもしれない。わからないな。

今朝は粒度が高い空だった。
夜が勢力を伸ばし始めてる。夏は駆け足で過ぎてゆく。

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もうそろそろ0%

長めの残業。
昨夜の寝不足のせいで80%程度の開眼率。
帰り道に難解な本を読む余力が残っていない。せめて寝落ちてしまわないよう、久しぶりにblogを更新してみたりする。誕生日というのは理由もなく佳いことだけが起こる気がして、でも実際はその期待値の分が裏切られ、結局ロクでもない日になる確率が高い。おそらく平均すれば極めて平均的ないちにちなのだろう。

幸せというものが物質や他者からもたらされるものであると考える人が周囲に意外と多いように思う。考え方にもよるが、あれはたぶん才能だ。幸福感受性という身体能力。先天的、或いは後天的な要素に影響を受けるため、この能力には個人差がある。幸福を感じにくかったとしても、自己責任の範疇は狭い、そんな風に考えている。

開眼率が60%を下回る。
家まで最短時間で辿り着きたい。

目の前でつり革に掴まる女性が片手で手荷物を網棚に上げる。Tシャツの裾がずり上がり、ヘソピアスがちらりと見えて少しだけ目が覚める。彼女にとってこれは予定調和だ、惑わされてはいけない。


某所で見かけたマウンティングめいた行為に浅ましさを感じた。感じてすぐに、それもまた私からその人に対してのマウンティング行為のようなものなのだと気づかされる。
私は潔白ではない。
私だけが潔白なのではない。
浅ましいのは自分なのだと気づかされる。
浅ましくてもよいから、気づいていたいよ。

Miscellaneous notes

【秘匿】
自分が密やかに大切にしているものを踏みにじられたくないという気持ちがあることをふと、自覚する。

大切なものほど秘匿する性質が私にはある。

私が秘匿する理由は以下のふたつが想定される。
ひとつめに、開示が自身の羞恥心に関わるケース。
ふたつめに、独占/所有欲に起因するケース。
私の場合、後者の理由が圧倒的な割合を占めている。


【信頼】
私にとっての信頼とは、「自分が見積もった分と同等かそれ以上のパフォーマンスで応えてくれるという期待」のことを指すかもしれない。
例えば仕事ならば「ここまで任せても大丈夫かな」と思える事、恋愛ならば「この人は裏切らない」と感じられること。
見積りは相手の、或いは自分の状況に応じて変動する。自分の状況がある程度把握できていないと正しく見積ることは難しいし、当然相手に対して期待する部分についての理解もまた必要になる。何も情報がない相手を信頼するのが難しいのはそのような理由があるからなのかなと考えている。
しかし信頼、比喩ではなく言い換えで説明するのがとても難しい言葉だ。この言葉それ自体で説明が完結している表現という感じがする。

【接続と伝達】
私からするとTwitterでのRTやふぁぼはweb上に張りめぐらされた神経に起こるスパークであり、刺激であり、接続と伝達の存在様式の可視化であるといった感覚がある。言葉は身体機能の一部を拡張する道具でもある。遠くフォロー外まで自分の言葉が届いて何らかの現象が起きているとしたら、それは自分の発した情報刺激がもたらす遠位端での作用とも言えるかもしれない。
また、人間同士が(グリッドコンピューティングのように)ネットワークで繋がり1つの集合知を形成していると見立てた時、言語や態度を介して伝わり他者の感情を自己の中に再現するタイプの「共感」はケーブルを経由しない神経伝達物質のような働きをするとも言えるんだな。

【】
寂しさと虚しさ、よく似てるけど違う。誰かといれば虚しくならない訳じゃない。独りでいても寂しくはない。
充実していない状態を寂しさと勘違いしてしまうことがあるけれど、あれは寂しいのではなく、虚しさなのだな。誰かに埋めてもらうようなものではなく、自ら何かで充たすことが必要なんだ。

【空】
空箱、「からばこ」じゃなくて「そらばこ」だとしたら、ふたを開けた瞬間に壮大な景色が拡がるんじゃないかなどと考えながら歩いていた。腕の中に「空を閉じ込めた箱」を抱えながら。


【部品】
書物や会話や行動や思考などから獲得された個々人の「知」が部品の1つとして集積或いは継承され、総合的に「大きな知」を形成してゆく様を思い描く度、この世界に存在する総ての人々がその壮大なロマンに組み込まれているのだなと気づかされる。

A : abstraction【抽象概念】

心に浮かんだイメージを言語化せず、絵に表すこともせず、喩えることもなく、心に浮かべたままにしておく訓練みたいなものを時々行っている。

それは見えない。
それは聴こえない。
味もしない、触れることができない。
けれどそこに『在る』イメージ。

感情であったり、思考であったり、問いに対する答えであったりもする。

人と解りあおうと考えたとき、抽象概念をある程度具体化し、イメージに実在性をもたせる必要が生まれてくる。また、人が独りであるならば言語は生まれなかっただろうとはよく云われるけれど、記憶にしまいこんだイメージを任意に取り出すためにはある種のフックが有用であることから、言語までは至らずとも、イメージを何かしらの現象と結びつける行為を、我々は自然と行っているだろう。

表現をしなければ、出力をしなければ、共有しなければ、それは「無」であるのか?
「私」はむしろ、抽象概念という宇宙に浮かぶ小さな星に住む小さな生物に過ぎない、と思う。

それは確かにそこに『在る』。