風鈴

猫 サイエンス 哲学

機能

カーテン越しのまだいかほども光を含まない気配。
覚醒を待つ微睡みの中で脳が急速に回転を始める。夜明け直前。私はこの季節のこの時間帯を識っている。恐らくは、6時前後。スマホに手を伸ばし確認する。6時6分を示すデジタルがバックライトに白く浮かび上がる。先程まで爪の先まで私の身体を包み込んでいた夢の世界が急速に後退してゆく。保持される必要がないと判断された記憶が現実に侵食されてゆくさまを眺めながら特段抗いもしない。昨夜は咳に眠りを中断されることなく存分に枕に頭を沈めていた。深い眠りを獲得できたという実感がある。良質な睡眠。良質な夢見。良質な覚醒。パスタを上手にフォークに巻きつけて口に運ぶような達成感。咀嚼された私の人生のほんの一握りがまるで永遠のように生活を分断する。人生は一瞬の連続で、失われてゆく時を如何に認識できるかによってその濃度を変化させる。目の前にある景色、目の前にある認識。感覚は入力するための信号。意味を与えなければ何ら機能しない。痛みは快楽に為りうる。快楽は悔恨に為りうる。物語を付与しながら人生を構築するということは機能するということと同義だ。機能したいという言葉は既に機能性を含んでいる。物語の中に統合がある。物語の中に、人生が構築される。咳がまた出始める。もう少し眠ろうか。

返し刀

本を読む気にならなくて、車窓と景色の中間あたりを眺めている。焦点はどこにも合っていない。強いて言えば心中にフォーカスしている。

自分の中から何一つ言葉が出てこないという時がそう少なくない頻度で訪れる。言葉は絵を描く事と似ている。曖昧に滲んだ世界に境界線を引き、輪郭を与える。言葉を失うということは、輪郭を掴むことができずに曖昧なままの世界が私の周囲に、或いは身体を通り抜けたそこに在るということなのかもしれない。


同意と共感と称賛のみで構成されたコミュニケーションを信頼していない。恐らく私はその態度に媚を感じてしまうからなのだと思う。
筋の通った理由を添えてくれるならばいっそ否定してくれる人の方が安心できる。そこに誠実さを感じる。

但し、これは返し刀だ。
自分は相手に誠実さを以て接しているだろうか。
否定できない相手に対して、媚を売っていないだろうか。
事前に制御できないような感情や行動でも、反芻しその意味に気づいたり、または意味を与えることで自覚を促せると考えている。まずは自覚したい。誠実であるために。

他者性

もうすぐ髪を切る。
2012年あたりから伸ばし続け、毛先は時々揃える程度に切っていたけれど。
人生で今が最も長い。そして人生で2番目くらいの短さまで一気に切る予定。
ドネーションする。
この長さを洗うのもあと二回だけだと思うと、いつも以上に丁寧になる。髪は確かに自分の一部なのに、容易に切り離されるが故に他者性をもつ。
一つ一つの細胞が、走馬灯を抱えている。私の人生を共に歩んできた。その全てを見てきた。もうすぐ離れてゆく。新たに別の誰かの人生をその裡に抱えてゆくのでしょう。
どうか幸せにしてあげてほしい。
私も幸せだったし、これからも幸せでありたいよ。
ありがとう、そしてさようなら。

積層

もう20年ちかく前に起きた出来事を、思い出した。振り返ってみれば私の人間関係はその出来事を基軸とし失敗を繰り返してきているように思える。PTSDとまではいかないけれど、心に深く刻まれたダメージを癒すことなく重ねてきた上書きが厚みを増しバウムクーヘンのような層を為している。甘くはない。
時間を経れば記憶は薄まってゆくものだと考えていた。実際には、深く穿たれた杭にぶらさがった鎖のその先は記憶に繋がっている。私はいつでも思い出す。類似した事象に、言葉に、態度にその影を見る。
1枚ずつ剥がしていったとしても、中心部には何もない。何を容れることもできた筈なのだ。でも何もない。

帰りの電車、涙がこぼれたら堰が切れると思い、呼吸を整えそこに集中した。吸い込んだ息が身体中を駆け巡り、指先まで届いて痺れるような痛みと置換する。過去の自分を一時忘れ、いまここにある心と身体、ただそれだけを思う。

あの時とは同じじゃない。
繰り返すことはない。
誰のことも責めない。一人の人間と一人の人間が個別に生きて活動し、それぞれが自分にとってよいと思う選択をしながら生きている。ただそれだけのこと。
自分の身に起きた自分にとって不都合な出来事が相手にとって都合のよいことだったとしても。私と同じように相手も抉られているとしても。それらのできごとは相手のせいではない。自分のせいでもない。ただそれは起こった。ただ、それは。
憎しみもない。怒りもない。哀しみはまだ時々繰り返すけれど、その時はまた哀しめばいい。積み重ねてきた層の一枚一枚、その総てが私であり、私の人生であるということ。
忘れなくてもいい。積み重ねてゆこう。

波打ち際

ぽくぽくと年末年始をかけて書いていた年賀状をようやく投函した。添えるひとことが浮かばないひととお返事が毎年ない人の分はそろそろ減らしてもよいかもしれない、と考えている。
日曜日のゆうゆう窓口は長い列の先頭に立っていて、暖かな日射しを浴びて並ぶ人達は殆ど縮まらない先頭との距離を諦めたかのように受け入れている。これほど苛立ちを感じさせない行列は、初めてかもしれない。ここだけが春であると錯覚する。名前もいいよね。ゆうゆう。なんか騙されちゃう。


独りでいることからくる寂しさの殆どは、誰かと居ることを"当然である" と価値付けた社会的な見方を通しての寂しさなのではないかと感じている。誰にも見られていなければ「寂しさ」は私たちに対して何の攻撃性ももたない。
何かを誰かと分かち合わなければ価値は価値をもたないのか。
自分の考えや想いを自分以外の誰かに理解される、受容される。そうでない状態は本当に"さみしい"のか。

誰かと関係性を築くことに対して何かの意味づけをする必要性はないと思うのだけれど、少なくとも道具や手段としての関係性は回避したいなと思う。私に空いた孔を埋めるのは私以外の誰にもできはしない。埋めなくてもいい。ただ、そこにさみしさがあったとしても、あるがまま置いておけばよいのではないか。


少しひどい風邪をひき、一日中浅い眠りを繰り返した。今日はかなりよくなったので、ずっと行きたかった冬の海へ。
夕暮れ時の海岸には20人くらいの男女が部活ジャージで水遊びしていたり、お父さんがちびっこの手を握りぐるぐるまわしていたり、よい風を捕まえて凧をあげている人がいたり、いっぬにフリスビーをとってこーいしている人などがいた。私は波打ち際ギリギリまで攻めて足元を濡らす前に逃げる遊びを繰り返した。
そうして景色の一部に溶けて夜を迎えて。

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Have a great New year

年末。
大掃除を淡々とこなした。
物を棄てるのが苦手な性分だが、えいやとがんばって処分した。
誰も代わりに棄ててくれはしない。買ったからには、最後を決めるのも自分自身で。そういう責任の取り方をしたいなと思った。

苦手なことを1つずつクリアしてゆく。
人生のレベル上げ。
「自分はこういう人間だから」と自覚し諦めているような部分こそ、変えることができるかもしれない。まずは適切に棄てられるようになりたい。

今年はカリグラフィを始めたので、〆にご挨拶。
コツコツ続けて少しずつでもよいから上達してゆければ嬉しいな。

読みに来てくださり、ありがとうございました。
よいお年をお迎えくださいませ。f:id:natsukiss:20171231235225j:plain

結び目

帰路。
午後半休にて仕事納め。
今年も、会社の近くにある小さなお稲荷さんに挨拶と本年の御礼を述べてきた。

私は特定の信仰をもつわけではないが、アニミズムの要素を核にもっていることは自覚している。
精神とはなにか。
魂とはなにか。
これらの原理が論理的かつ再現性のある手法で検証され、定義される日がいつかくるのだろうか。今はまだ、信仰の一種として私の中に留まっている。

アニミズムについてではないが、ひととひととの関係性が及ぼす効果についてもしばしば考える。人間関係もまた、生命をもつかのように脈動している。鉈をふるったり、都合のよい展開を連れてきたり、徒に翻弄したりする。どんな存在であろうと自分の在り方が無であることはあり得なく、1度存在したからには無になったとしても何らかの影響を(誰かの)世界に対して与えることは避けられないだろう。己れのふるまいが人間関係を伝わって及ぼす影響は、それこそ蝶羽の微かな瞬き以上の効果をもたらすであろうという信仰が私にはある。


故に、小さなお稲荷さんに頭を下げる。
お稲荷さんは、謂わば代表なのだ。
私が影響を及ぼすであろう凡ての事象に対して私が抱く感謝を受け止める立場として。
また、私が頭を下げることで私自身が負うべき自分自身の行動への責任表明を聞き届ける役割として。
巡り廻る連結した円環の一端の結び目をもう一度硬く締め直すかのように。
そこは私の世界と繋がっている。





このあと理解についてばうむさんと話し合ったのだけれど、彼は、ヒトには「理解した」と感じるスイッチのようなものが備わっているのではないか、という考えをもっているらしい。だから「理解した気になっている人」が存在するのではないか、と。
なるほど、面白い考えだと思う。
そのスイッチの存在の是非についてはわからないけれど、「理解した気になる」という現象、私は、相手の提示した要素を用いて、相手とは違う論理を構築した結果起こることなのかなと考えている。


クリスマスが終わったとたん、街が一気に年末モードに変わり果てている。毎年のことだけれど、寂しいようなきもちがある。私にとっての年末年始、お祭り気分というよりも厳粛に心を切り替えるような感覚が強い。寒さのせいなのかもしれない。