風鈴

猫 サイエンス 哲学

結び目

帰路。
午後半休にて仕事納め。
今年も、会社の近くにある小さなお稲荷さんに挨拶と本年の御礼を述べてきた。

私は特定の信仰をもつわけではないが、アニミズムの要素を核にもっていることは自覚している。
精神とはなにか。
魂とはなにか。
これらの原理が論理的かつ再現性のある手法で検証され、定義される日がいつかくるのだろうか。今はまだ、信仰の一種として私の中に留まっている。

アニミズムについてではないが、ひととひととの関係性が及ぼす効果についてもしばしば考える。人間関係もまた、生命をもつかのように脈動している。鉈をふるったり、都合のよい展開を連れてきたり、徒に翻弄したりする。どんな存在であろうと自分の在り方が無であることはあり得なく、1度存在したからには無になったとしても何らかの影響を(誰かの)世界に対して与えることは避けられないだろう。己れのふるまいが人間関係を伝わって及ぼす影響は、それこそ蝶羽の微かな瞬き以上の効果をもたらすであろうという信仰が私にはある。


故に、小さなお稲荷さんに頭を下げる。
お稲荷さんは、謂わば代表なのだ。
私が影響を及ぼすであろう凡ての事象に対して私が抱く感謝を受け止める立場として。
また、私が頭を下げることで私自身が負うべき自分自身の行動への責任表明を聞き届ける役割として。
巡り廻る連結した円環の一端の結び目をもう一度硬く締め直すかのように。
そこは私の世界と繋がっている。





このあと理解についてばうむさんと話し合ったのだけれど、彼は、ヒトには「理解した」と感じるスイッチのようなものが備わっているのではないか、という考えをもっているらしい。だから「理解した気になっている人」が存在するのではないか、と。
なるほど、面白い考えだと思う。
そのスイッチの存在の是非についてはわからないけれど、「理解した気になる」という現象、私は、相手の提示した要素を用いて、相手とは違う論理を構築した結果起こることなのかなと考えている。


クリスマスが終わったとたん、街が一気に年末モードに変わり果てている。毎年のことだけれど、寂しいようなきもちがある。私にとっての年末年始、お祭り気分というよりも厳粛に心を切り替えるような感覚が強い。寒さのせいなのかもしれない。