風鈴

猫 サイエンス 哲学

解釈

恣意的でない世界が存在するとはどうしても思えなくて、考えながら幾晩か過ごした。
世界とは、解釈だ。
あるがままをあるがままに、誰の目も通さずにただ存在するものは、無に等しい。
分節から無分節、そして再び分節されるその世界にのみ、恣意性がないのではないか。そしてそれを獲得できたとしても(今の技術では)誰とも共有不可能なのだと私は考えている。

一番星

かつては「こう言えば格好よく見えるだろう」と、人からの見え方を気にかけた発言をすることもあった。悪く言えば綺麗事であり、自分だけが知っている理想と現実のギャップは背信に似ていて、自身の人格の薄っぺらさの証左でもあった。しかし裏を返せばそれは「こうありたい自分像」の表明でもあった。
口に出したからにはやらねばならぬ。現実はいつでも理想の後追いだけれど、そこに目指す姿が見えているのなら、あとは追うだけでよいとも言えるのだった。
理想像に追い付くことは、ないと思う。後追いは生きている限り続くのだろう。でもきっと、それでよいのだ。人は生涯をかけて、なりたいような自分になってゆく。往きつ戻りつしながらも。



日曜日の神田神保町へ。
シャッターが下りているお店は多かったけれど、それなりに楽しめたと思う。新刊書店も本の陳列に個性があり、一般書店では棚に数冊並ぶ程度のマニアックな文芸書が平積み面展になっていたりする。

この古本屋街を訪れたのは記憶が確かならば10年ぶり位だった。1つずつ目につく本屋さんに入っては、棚を隅からゆっくりと見てまわるのは至福であった。手にしては戻し、手にしては戻し。しかし結局私はただの一冊も、購入することができなかった。
目に飛び込んでくる美術書も哲学書も、敷居が高いというほどではない。相応の値段を支払えば手に入るはずだった。でもなぜか、自分が所有すべきではないと感じたんだ。
在るべき場所に在る方がよいのではないかという感覚。もしかしたらそれは、それらの本に対する敬意のようなものなのかもしれない。いや違う。本当は、己の不勉強さが、知性に叩きのめされたんだ。私は、圧倒されていた。うず高く積み上げられた先人の知性に。

対等な目線であの棚の前に立つことができるようになりたい。



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予想

厭世的な気分が寂寥にとって代わる。
私は自分で思うよりも世界を愛しているのだろう。
何かを失うというのに、それが確かにそこにあったという証明は残される二律背反。手にいれた時、既にそれはなくなっている。



森博嗣 著『青白く輝く月を見たか?』に、印象的な一文があった。「一つの社会を構成している人間たちについて、それぞれの個人としての行動を予言することはできない。しかし個人という基本単位を多数寄せ集めてみると、そこにある種の法則が浮かびあがってくる。それはちょうど、はるか以前に生命保険会社によって発見されたものに似ていた。つまり、ある一定期間内にどの個人が死ぬかはわからないが、全体として何人ぐらいの人間が死ぬかはかなり正確に予想できるのだ」(頁149)

株価、経済、政治、天候、地震、戦争、死亡率・・・マクロスコピックにみて初めて理解や予測が可能になる事柄は数多くあるけれど、そのうちの幾つかは人間という種族の生命活動と感情の性質や傾向を強く反映して成立する潮流の一部なのだということを感じている。
たとえば歴史とは観測されて初めて歴史として遺される訳だけれど、観測されない事象のひとつひとつに影響力がないわけではもちろんなくて、ひとのたったひとつの心の動きですら、潮流に組み込まれる水分子のひとつなのだ。

私がそれを食べたいと願うその裏には、欲望があり、マーケティングの刷り込みがあり、社会から与えられたストレスがあり、肉体が要求する栄養成分があり、付き合いがあり、義務がある。その結果として時に病を得たり、流通の最尾を担い、誰かに与え、廃棄したりする。
心の動きですら、何にも影響を与えないとは思えなくなっている。口に出さずとも。圧し殺したとて。忘れてしまっても。

この脳の中に押し込まれているスペックの低いシミュレーションシステムを駆使し直感だけで辿り着けるような答えが欲しい。全ての因果が可視化されなくてもいい。

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渋谷東急百貨店の古本市、愉しかったな。
カントとジャック・デリダは初めて読む。
井筒先生の文庫初版本に出逢えたのも本当に嬉しかった。また古本市が立ったらゆこう。神田にもゆこう。懐かしの、神田神保町

括弧

ニー仏さんのキャス録画2本、『余は如何にして出家者となりし乎 』密かに楽しみにしていた。ようやく聴くことができて嬉しい。

ギリシャの倫理(目的から方法へ)から神は死んだを経て近代(方法から目的へ)に至り、現代日本では特に功利主義(≒損得主義=金とパンツ)しか残らなかったという話の流れの面白さよ。確かに現代日本では帰結主義や最大多数の最大幸福などがベースに仕込まれた上に規定された「正しさ」を感じる。そしてその「正しさ」に疑問をもちにくい風潮も確かに感じている。それはニー仏さんが指摘するように、「価値体系を自覚させる」という(思想教育という意味ではない)哲学的教育の不足が原因の1つとして挙げられるのだと思う。

縁起説が宇井伯寿と和辻哲朗の影響を受け明治以降に普及した考え方だったという話も新鮮だったな。この説が科学的世界と親和性が高いということ、実感として理解できる。自分から見える限定された世界において事象を因果関係で結び結論づける日々を、我々は生きている。

ニー仏さんがミャンマーで実践に至った経緯やなぜ学者として生きることをしなかったのかという部分はある意味キャスの核心なのでここでは触れないけれど、若林さんが仰るようにその理由、「痺れました」ね。

それからこれは個人的所感なんだけど、私も幼い頃に学研ひみつシリーズを貪り読んでいたこと、赤毛のアンに限るけれどモンゴメリを好んで読んでいたこと、ズッコケシリーズもかなり好きだったなど、読書体験がニー仏さんと一部共通していたことがなんだかちょっと嬉しかったな。一気に懐かしさで幼い頃に引き戻されてしまった。虹ができる理由、夕焼けが赤いひみつ・・・ワクワクしながら読み漁ったあの日々が、間違いなく私を科学の道へと導いてくれた。

では私自身の「コペルニクス的体験」とは何だったのか。キャスを聴き終えてから考えていた。まだ考えを纏めるに至っていない。いつかここか、または何処か別の場所で、そんな話ができたらよいな。そう思っている。


以前blog「遊泳」の方にもちらっと書いたことがあるけれど、自分はいつも「眠っているような感覚」が何処かにある。しばしば覚醒感を得る時もあるのだけれど、記憶の領域が少々不出来なのか、必要な情報を必要な時に取り出せないことが多々あるんだよな。困ったものです。特に自分の人生に興った事象に記憶のフックを仕掛けることが苦手なようで、最近は意識的に仕掛ける努力をしている。年代とイベントごとについてとか。こんな記憶ほんとに要る?要らなくない?とか思ってしまうのが、覚えておけない原因なのかもしれないな。
そういえば記憶に関してWIREDに面白い話が出てましたね。

https://wired.jp/2017/08/12/your-brain-is-memories/
(以下一部抜粋)

記憶と脳の関係、そして記憶のメカニズムの詳細を明らかにする論文が発表された。研究結果によると、記憶とは「脳に蓄積される」ものではなく、脳が「記憶そのもの」であり、脳細胞やシナプスなどが「時間を理解」しているのだという。
(中略)
「典型的な記憶とは、過去のある時点で活発だった脳の複数の部位のつながりが、再び活性化することでしかないのです」と語るのは、論文共著者のひとり、神経科学者のニコライ・ククシュキンだ。
(中略)
記憶とは「システムそのもの」だが、こうした分子や、分子が制御するシナプスが記憶である、という考えは誤りだ。「分子、イオンチャンネルの状態、酵素、転写プログラム、細胞、シナプス、それにニューロンのネットワーク全体をほじくり返してみると、記憶が蓄えられている場所など、脳内のどこにもないとわかります」と、ククシュキンは言う。

これは、記憶にかかわるニューロンの可塑性(外界の刺激などによって常に機能的・構造的な変化を起こすこと)と呼ばれる特性のためだ。言い換えると、記憶とは「システムそのもの」なのだ。
(中略)
ヒトの記憶は、どんなに大切な記憶であっても、粒子のレヴェルからスタートする。あなたの母親の顔は、最初は大量の光子(フォトン)としてあなたの網膜に降りそそぎ、網膜が視覚野にシグナルを送る。声を聞けば、聴覚野が音波を電気信号に変換する。ホルモンは、「この人といるといい気分」というように、経験に文脈を添える。

これら以外にも、無限と言っていいほど膨大な数のインプットが、連鎖的に脳内を駆け巡る。ニューロン、制御分子、それによって生じたシナプスには、関連するすべての副次的事象が、その発生の時系列とともにエンコードされていると、ククシュキンは言う。しかも、経験全体がひとまとまりとして、いわゆるタイムウィンドウのなかに収められているのだ。

これ、自分がこれまで考えてきた記憶に対する理解を根本的に覆すような興味深い話だった。脳のシステムそのものが記憶装置として機能しているのか。とはいえ遺伝子にシステムそのものの情報が格納されているわけで、ではエピジェネティクスな要素が記憶の可塑性にどこまで関わってくるのか、経験によって書き換えられた記憶はシステムのどこからどこまでによって保持されているのか(脳の部位ひとつひとつの機能を考えると必ずしもその全ての機能が記憶領域と深い関わりをもつとは考えにくい)などと考え始めると止まらなくなりそう。論文読んでみようかな。

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横浜中華街で購入したハリネズミまんが可愛かった。中身は甘すぎないカスタード。お店の前では掌にハリネズミまんを載せて「熱い!あっついよ!!」って騒ぐお父さんらしき人を家族みんなで取り囲み、ニコニコしながら撮影会していた光景に和みました。よい。とても、よい。

書物

「生きていること」イコール生命ではないと、思っている。記憶に遺された出来事も、関わりかたも、言葉も態度も。そのひとつひとつが生命そのものなのだと感じている。
たとえばある考え方を示した人が亡くなったとしても、遺されたその考え方は誰かの心に残り、その人の一部となり、伝承されたり違う形に変わって続いてゆく。生命は蓄積されていくものだという認識が私の中にはあるな。
便宜上「人」という例を挙げたけれど、動物とのふれあいも、愛用してきた道具などの物でもそうだ。それらとのかかわり合いの中で遺された記憶もまた、私にとって生命であり、私の生命を作ってくれる一部なのだと感じている。
実存そのものに価値があると捉えるひとも多いと思う。私も大切な存在の実存を喪いたくはない。でも、たとえ実存が喪われたとしても、その存在の価値が損なわれる訳ではないということもまた、感じている。


マラルメ「LE MONDE EST FAIT POUR ABOUTIR A UN BEAU LIVRE.(世界は一冊の美しい書物に近付くべく出来ている)」(吉田隼人氏訳)という言葉、色々な意味に捉える事が出来るけれど、私の生命のイメージはこのひとことに集約されているかもしれない。
幼い頃よく耳にした「死んだら星になる」という表現、物理的にも心象的にもしっくりくる表現だなと、今更ながら感心している。私も死んだら星になるのだという思いは心の奥深くでずっと、優しく根づいてる。

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ことばも、在り方も、考えも、私の身体を形づくる。食べたものがそうであるように。

デフォルト

2台前のスマホ、好きな曲がたくさん入っているという理由もあり、機種変した後も目覚まし時計としてずっと使い続けていたのですが、昨夜突然静かに眠りについてしまいました。
寂しいけれど今までありがとうというきもち。
そんなわけで、今朝は現在使用しているスマホにデフォルトで入っている曲で目覚めました。電子音の鳥の声。ディストピア感ある。
とはいえこの電子音もおそらく誰かが作曲したもので、きちんと目覚める事ができそうな音階や音の強弱高低を工夫してくれたりしているのだと考えると、温もりを感じなくもないな。


台風が去ったおかげで低気圧性の頭痛がようやく軽快しました。一体どういう仕組みで頭痛が起きるのかと調べていたのですが「低気圧に伴い血管が拡張し、血液量が増えるため、片頭痛と似たような痛みが起こる」という説明が一番納得いきました。ならば身体を冷やしたり、適量のカフェインを摂取したりして、血管を収縮させればよいのかな。それと同時に湯船で身体を温めすぎない、とか。次の機会に試してみよう。


将来設計のためのスキル向上や新たな分野についての勉強など、人生にはアクセルを踏むべきタイミングというものが何度か訪れるなと感じています。
本を読むことは好きだし楽しいけれど、期間を決めて新しい知識を入れていく努力をしていきたい。

いつか身辺整理をしよう、やるべきこと/やらざるべきことのリストアップをしようと考えているのですが、ずるずると先延ばしになってしまっているんだよな。このお盆休みには必ずリストアップ致しましょう。自分との約束。

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先日お休みの日に食べたスターバックスのブルーベリーチーズタルト。これ、凍ったままでアイスケーキみたいにさくさく食べる方が美味しいかもしれないなと感じました。
にゃむ。

一時放置感情処分box

井筒俊彦先生の特集を組んだ雑誌が今年増補新版として再販されたようで、紀伊國屋書店で小躍りしながらレジへと急いだ。とても嬉しい。とても嬉しい。
これまで人物評をメインとする書籍をあまり読んだ事がなかったせいもあり、新鮮に感じる体験をしている。井筒先生の散逸した寄稿や手記を集め、その人生に関わった人々や影響を与えられた人物が誰なのかなど、系譜を辿る研究というものがそこにはあった。
責任編集をされている安藤礼二氏と若松英輔氏の井筒先生について深く掘り下げて行く議論がとても面白く、また私が作品を読んだ際の理解の浅さがお二方の広範な知識と造詣の深さによってカバーされ、違う視点から再読しているような感覚を与えてもらえている。まだ読み途中だけれど、じっくりゆっくり染み渡らせるように読み進めてゆくつもり。




思ったことを2つ、備忘録として自分のために残しておく。


以下は某ツイートにぶら下がっていたコメントに対してわいた怒りを理性で抑え込もうとした時のツイート。ある差別を受けている人々に対し、「こういう(心理的恐怖心を)抱かせるような得体のしれなさがある」という主旨のコメントをしている人がいて、自身の不理解と不勉強を根拠のない差別意識に押し込め、気持ちわるいと公言してしまうことの気持ち悪さ。ああ、私はまだ腹が立っているのだな。
理解のできないことを蔑んだり否定するのではなく、「理解できないから処分を一時放置する感情box」に放り込んでおけたらよいのにな。

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宵闇のなか、テッポウユリが咲き始めた。見事な直角。曲がっているのになぜか真っ直ぐな美しさがあるんだよな。