風鈴

猫 サイエンス 哲学

一次発信

担当していた研究発表が終わり、一息つきながらの帰り道。比較的ましな時間に退社できたのでちょっと嬉しい(こういうときは大概電車が止まるので時々ジョルダンライブを眺めている・・・)。


気がついたら、Twitterのタイムラインを眺めていてもあまり楽しく感じない。自分で作成したリストをざっとチェックして閉じてしまうことがしばしばある。ここ最近ずっと忙しくしていてあまりゆっくり眺める時間がとれなかったというのも一因なのだけれど、どうやら原因はそればかりではないようだ。


個々人によると思うけれど、私のタイムラインの場合、「~さんがいいねしました」というツイートとRTが長々と並ぶ。いいねやRTされるようなツイートは既に物凄くRTされているような "ウケがよい" ツイートがかなりの割合を占めている。それらがタイムラインを占拠しており、誰かの何気ない日常のようなツイートは時折ぽつりぽつりと流れてくるばかり。
確かに「ウケがよい」ツイートは面白い。濃縮され解りやすく、一瞬で心奪われるような魅力。大多数の人々の心というメッシュでふるい分けされ、生き残ってきた百戦錬磨の感興たち。私ももちろんキライではない。

しかし私はそのような面白さばかりをTwitterに求めている訳ではないのだなと気づかされる。
「誰かに決められた/抽出された面白さ」ではなく、泥臭くて雑多な人々の日常から「自分が」何か面白いものを拾いあげることを、何より楽しみにしているのだ。

限られた時間というパイを奪うために効率化し濃縮された面白さという種類の刺激は便利ではあるけれど、同時に見つける、選ぶ、決定するという人間の欲を削ぎ落とすものでもあるのだ。私がTwitterに抱いている欲と刺激は、後者に類するものだったみたいだ。


そんな訳で、今の公式のシステムは私にとってあまり魅力を感じることができない場になっている。クライアントを変えてみたら解決するだろうか、などと考えてもみたのだけれど、このまま少しずつ離れて行くのもよいのかもしれないな。欲を削ぎ落としてくれるなんて、逆に有難い話じゃないか。

デパートの敷地内、植え込みの片隅に見つけた植物なのだけれど、同じ種類の葉でこんなに多彩なものは初めて見た。さりげない発見を提供してくれるというのは実にセンスがいい。
電車の進行はスムース。
ゆけるところまでゆきましょう。