風鈴

猫 サイエンス 哲学

回転数

最近は手入れが必須で面倒な小物を増やすことにしている。短いスパンで買い替えるようなアイテムへの興味が薄れて来たのだと思う。昨日はよい靴を買った。オイルレザーのショートブーツ。
おろす前にブラシをかけてクリームを塗り、防水処置をした。待ちきれなくて今日履いて出たのだけれど、よいね。軟らかく包み込むような風合い。生き物の気配。
私は履いてゆく靴を決めてからコーディネートを決めることがよくある。靴のお陰で着こなしのバリエーションの拡がりが増えるように思う。
一方、バリエーションを減らすために、そろそろ手放そうと考えている靴もある。なかなか物を棄てられない気質は少しずつではあるが、変わりつつある。



雑多な感情が行き交うSNSを少しの間眺め、そして閉じた。
消費される時間と削られる感情。
人は過去を積み重ねてきたその先に解釈を構築する。


人生をドライブするために本を読む。議論する。愛し合う。感情を動かし己れを改変し、日々生まれ変わる。回転数を上げて疾走。能動的であれば取り込むデータの量は増えるだろう。しかし。
リバネスの丸さんが言っていた「同じデータを見たとしても、人によって見え方は違う。それまで積み重ねたものによっては筋道が見える人もいる」という言葉を噛み締めている。
ただデータが増えればよいというものではない。
道筋を見るのだ。
点と点を繋ぐ線を見つけて意味を見いだす。そのために疾走している。

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今年は玄関に、リースの代わりとしてこのサンタ熊をぶらさげた。
開ける度にゆらゆらり。いってきます、おかえりなさい。ゆらゆらり。

一次発信

担当していた研究発表が終わり、一息つきながらの帰り道。比較的ましな時間に退社できたのでちょっと嬉しい(こういうときは大概電車が止まるので時々ジョルダンライブを眺めている・・・)。


気がついたら、Twitterのタイムラインを眺めていてもあまり楽しく感じない。自分で作成したリストをざっとチェックして閉じてしまうことがしばしばある。ここ最近ずっと忙しくしていてあまりゆっくり眺める時間がとれなかったというのも一因なのだけれど、どうやら原因はそればかりではないようだ。


個々人によると思うけれど、私のタイムラインの場合、「~さんがいいねしました」というツイートとRTが長々と並ぶ。いいねやRTされるようなツイートは既に物凄くRTされているような "ウケがよい" ツイートがかなりの割合を占めている。それらがタイムラインを占拠しており、誰かの何気ない日常のようなツイートは時折ぽつりぽつりと流れてくるばかり。
確かに「ウケがよい」ツイートは面白い。濃縮され解りやすく、一瞬で心奪われるような魅力。大多数の人々の心というメッシュでふるい分けされ、生き残ってきた百戦錬磨の感興たち。私ももちろんキライではない。

しかし私はそのような面白さばかりをTwitterに求めている訳ではないのだなと気づかされる。
「誰かに決められた/抽出された面白さ」ではなく、泥臭くて雑多な人々の日常から「自分が」何か面白いものを拾いあげることを、何より楽しみにしているのだ。

限られた時間というパイを奪うために効率化し濃縮された面白さという種類の刺激は便利ではあるけれど、同時に見つける、選ぶ、決定するという人間の欲を削ぎ落とすものでもあるのだ。私がTwitterに抱いている欲と刺激は、後者に類するものだったみたいだ。


そんな訳で、今の公式のシステムは私にとってあまり魅力を感じることができない場になっている。クライアントを変えてみたら解決するだろうか、などと考えてもみたのだけれど、このまま少しずつ離れて行くのもよいのかもしれないな。欲を削ぎ落としてくれるなんて、逆に有難い話じゃないか。

デパートの敷地内、植え込みの片隅に見つけた植物なのだけれど、同じ種類の葉でこんなに多彩なものは初めて見た。さりげない発見を提供してくれるというのは実にセンスがいい。
電車の進行はスムース。
ゆけるところまでゆきましょう。

世界思考

過去の研究成果を踏まえた上に新しい発見や知見が生まれてくることを考えると、個人だけでなく世界全体で思考しているのだなあとしみじみ思う。

我々は知覚し思考するひとつひとつの細胞で、社会でそれらがネットワークされ、世界というひとつの脳として更に統合された思考をするというイメージがいつもあるんだ。

ググったら似たような概念として、集団的知性という理論がヒットした。
大まかにいえばそのようなイメージ。集団自体に知能や知性が宿るような感覚。
但し厳密にいえば、私の考える集団とはカテゴライズされたクラスタを指すのではなく、人類そのものを想起している。


「新たに発見される知見」は、加算であり、それ自体に時間が進む方向への流れを含む。
忘れる(減算する)ことで時間の流れを逆走するかもしれないが、集団的知性に於いては忘却という措置がとりにくくなる。記憶装置が複数設置されている、つまりはバックアップが万全である状態にあるから(蛇足ながら、否定的知見も加算方向である)。
発見が重なれば時間は進む。
そんな愚にもつかない想像をしながら過ごしていた。非生産的態度をこよなく愛しているんだ。


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鮮やかな朝焼けを見た。
枯れ葉がひらり肩に落ち、暫く一緒に歩いた朝。

マニュアル

丁寧にひとつひとつの景色を解きほぐし記憶すれば、もう少し焦点が合った生き方ができるだろうか。
誰かの言葉、与えてくれた感情、この身に起こった出来事。解像度を上げて感情と共に刻み込み、写真のように記憶したい。
私の目は外側に向いていない。過去の自分と巧くリンクしていない。いつもそう、今の自分がどうあるか、ただそれだけを生きている。


自分と対象との関連付けの訓練。
認識の精度をあげること。
心だけでなく身体を使って味わうこと。
連想の幅を拡げ、脳内検索でヒットする確率を上げること。
一瞬を刻む。

虚栄心

あなたもきっとこれが好きだと思う、と言いながら差し出せる相手、私にとってはあまり数多くない。その行為は理解と安心に裏打ちされた関係性の上に初めて成立する。
大抵は何も言わずにそこに置いておき、選んでもよい、選ばなくてもよいという情報と状況だけを提供する。主体的選択に対して干渉するかしないかは、私にとって親密感と親近感の分水嶺のひとつであるのかもしれない。
それから私はたぶん、「自らの意思で選ぶ」ということを、とても大切に考えているのだと思う。


Twitter長門先生が自分にどんなバイアスがあるかについて考えていらしたので、つられて考えていた。
私の場合、メサイアコンプレックス気味なので「自分なら何とかしてあげられる」と感じるような相手に自然と近づいてしまう傾向がある。だからこそそう感じる相手には特に、なるべく近寄らないようにしていたりする。
弱いところを補い合いながら生きてゆくのは大切なことだし生存戦略としても有効だと思うんだけど、私の場合それがメインだと共依存的になってしまうんだよね。相手とがっつり向き合うよりもそれぞれ進む方向がだいたい同じ、というような在り方の方が長期的に上手くいくみたいだ。


なぜ自分がメサイアコンプレックス気味なのかについて自己分析を試みたことがある。
自分自身では生い立ちやこれまでの人生の在り方について不幸だと感じたことはないのだけれど、他の人達に語ると決まって「大変な人生だったね」と評価される。
もしかしたら私は、不幸だと感じたことがないのではなく、感じないようにしていたのではないか。
お決まりのパターン。「私は幸福なのだから、他の不幸なひとを救う力と義務があるはずだ」
無意識にそのように考え実践することで、私は私自身を救おうとしてきたのではなかったか。

生い立ちは自分では選べないので仕方ないことを含むけれど、それ以外の事柄については基本的に自分の意思で選択してきたことだから、その選択がもたらした結果については自己責任で引き受けたいと考えている。
幼さや拙さ愚かさがもたらした結果だとしても、それは自分で選んできたことなのだと。
そうして自分で選択したことが失敗であったと認めたくない。失敗ではなかった。だっていま、不幸ではないから。そんな逆説的なロジックで自分の心を誤魔化しているのではないか。
そんなことを考えていた。


幸福でなければならないという決まりなどありはしないのに、なぜ幸福でなければならないと考えてしまうのか。
それは誰にとっての幸福であるのか。
虚栄心や自尊意識の顕れではないのか。


不幸になるような選択をしてきたこれまでの自分の愚かさを他人に見抜かれないように、いまは幸福なふりをする。そんな自分の矮小さを自覚したのでした。
よいもわるいもなく、ただあるがままを自覚しよう。



返る音がまた1オクターブ上がった気がする。硬質な空気、透明度が増す街並み。
荷物を肩からぶら提げて両手をポケットにしまいこみ、葉を落とした街路樹の影をよけながら歩く。step、step。
髪を剃り上げているせいではっきりと見える前を歩く男性の頭蓋骨のカーブにヘッドフォンの半円がフィットせず若干宙に浮いている。
さよなら、11月。

我欲の罠

思い返せば、これまで去る者は追わないという行動が、リアルでもTwitterでも、自分がとってきた唯一の選択だった。


「縁を切る」というその人の意思決定を尊重する気持ちもあるし、私自身の自尊意識もある。あとは何より、追いかけるほどに去られたことに対する傷が深まるように思えるのだった。


傷の大きさは大抵、自分の思い入れの軽重に相関性をもつ。大切だと感じていた相手から(様々な事情があるとはいえ去られたとき)自分が思うよりも自分は大切に思われていなかったというひとつの推論にたどり着き、哀しみを感じてしまうということなのかもしれない。


どのような関係性であれ、心を寄せる重さを量ることは不可能であるし、全くの同等であることなどほぼあり得ないと考えている。それでも、いやそれだからこそ、相手に対する期待は具体的な重さを量られることなく心に浸積し、相手の存在と分離できない感情としていつしか生着してしまうのだろう。


最初から相手に対して期待/執着しないように接することが心の自衛手段として最善手であることを、経験則では知っている。しかしそのような在り方をするりと抜けてくる魅力的な人がいる。そういう相手と相互作用し続けるのは幸福であると知っているが故に嵌まる我欲の罠なのだと自分では感じている。

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埋める

静かに命を命に変えてゆくカラスを見た。明け方の街。
カラスが鳴き声で仲間を喚ぶというのは本当なんだなと思ったりした。

何故か今日いちにちを通して、死のテーマが話題にのぼることが多い。
相互連関のない関係の死は無に近いのにコンテンツにしてしまえるほど無邪気に語れはしない。素通りできずに目を向けて、目を伏せる。そんないちにちだった。


中間面談で「もうちょっとイケるので業務量増やしても大丈夫ですよ」と言ったらえげつない増えかたをした。圧倒的感謝。つらい、けど、つらいと言いながら生きていたい。仕事に追われていると生きている感じがする、と以前何処かに書いたけれど、今でもそう思っている。追い立てられたい。人生の密度を高めたい。圧縮して詰め込んでぎちぎちに濃く生きて、いつでも後悔しないように終われたら。
虚しさを感じたくないというある種の欲が、私の人生を駆り立てる。何かを遺したいのではない。私が何かを埋める代わりに何かが私を埋めてくれる、Give and takeの循環を生きている。

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