風鈴

猫 サイエンス 哲学

虚栄心

あなたもきっとこれが好きだと思う、と言いながら差し出せる相手、私にとってはあまり数多くない。その行為は理解と安心に裏打ちされた関係性の上に初めて成立する。
大抵は何も言わずにそこに置いておき、選んでもよい、選ばなくてもよいという情報と状況だけを提供する。主体的選択に対して干渉するかしないかは、私にとって親密感と親近感の分水嶺のひとつであるのかもしれない。
それから私はたぶん、「自らの意思で選ぶ」ということを、とても大切に考えているのだと思う。


Twitter長門先生が自分にどんなバイアスがあるかについて考えていらしたので、つられて考えていた。
私の場合、メサイアコンプレックス気味なので「自分なら何とかしてあげられる」と感じるような相手に自然と近づいてしまう傾向がある。だからこそそう感じる相手には特に、なるべく近寄らないようにしていたりする。
弱いところを補い合いながら生きてゆくのは大切なことだし生存戦略としても有効だと思うんだけど、私の場合それがメインだと共依存的になってしまうんだよね。相手とがっつり向き合うよりもそれぞれ進む方向がだいたい同じ、というような在り方の方が長期的に上手くいくみたいだ。


なぜ自分がメサイアコンプレックス気味なのかについて自己分析を試みたことがある。
自分自身では生い立ちやこれまでの人生の在り方について不幸だと感じたことはないのだけれど、他の人達に語ると決まって「大変な人生だったね」と評価される。
もしかしたら私は、不幸だと感じたことがないのではなく、感じないようにしていたのではないか。
お決まりのパターン。「私は幸福なのだから、他の不幸なひとを救う力と義務があるはずだ」
無意識にそのように考え実践することで、私は私自身を救おうとしてきたのではなかったか。

生い立ちは自分では選べないので仕方ないことを含むけれど、それ以外の事柄については基本的に自分の意思で選択してきたことだから、その選択がもたらした結果については自己責任で引き受けたいと考えている。
幼さや拙さ愚かさがもたらした結果だとしても、それは自分で選んできたことなのだと。
そうして自分で選択したことが失敗であったと認めたくない。失敗ではなかった。だっていま、不幸ではないから。そんな逆説的なロジックで自分の心を誤魔化しているのではないか。
そんなことを考えていた。


幸福でなければならないという決まりなどありはしないのに、なぜ幸福でなければならないと考えてしまうのか。
それは誰にとっての幸福であるのか。
虚栄心や自尊意識の顕れではないのか。


不幸になるような選択をしてきたこれまでの自分の愚かさを他人に見抜かれないように、いまは幸福なふりをする。そんな自分の矮小さを自覚したのでした。
よいもわるいもなく、ただあるがままを自覚しよう。



返る音がまた1オクターブ上がった気がする。硬質な空気、透明度が増す街並み。
荷物を肩からぶら提げて両手をポケットにしまいこみ、葉を落とした街路樹の影をよけながら歩く。step、step。
髪を剃り上げているせいではっきりと見える前を歩く男性の頭蓋骨のカーブにヘッドフォンの半円がフィットせず若干宙に浮いている。
さよなら、11月。

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