一時放置感情処分box
井筒俊彦先生の特集を組んだ雑誌が今年増補新版として再販されたようで、紀伊國屋書店で小躍りしながらレジへと急いだ。とても嬉しい。とても嬉しい。
これまで人物評をメインとする書籍をあまり読んだ事がなかったせいもあり、新鮮に感じる体験をしている。井筒先生の散逸した寄稿や手記を集め、その人生に関わった人々や影響を与えられた人物が誰なのかなど、系譜を辿る研究というものがそこにはあった。
責任編集をされている安藤礼二氏と若松英輔氏の井筒先生について深く掘り下げて行く議論がとても面白く、また私が作品を読んだ際の理解の浅さがお二方の広範な知識と造詣の深さによってカバーされ、違う視点から再読しているような感覚を与えてもらえている。まだ読み途中だけれど、じっくりゆっくり染み渡らせるように読み進めてゆくつもり。
例えば本書には大江健三郎氏が井筒先生の書籍に触れ受けた影響などの話題を寄稿されているのだけれど、いつかこの小節も大江氏を(ある側面から)知るための研究の一部となるのでしょう。そう考えると、世界を織り成す糸のひとつひとつに触れているような気持ちがわいてくる。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2017年8月6日
これは著名人に限った話ではないのだけれど、誰かの人生を丸ごと追体験することは自分の人生をすべて預けたとしても決してできないんだよな。ひとりひとりの人生に固有性があり、同じものはひとつとしてないということを改めて感じてる。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2017年8月6日
思ったことを2つ、備忘録として自分のために残しておく。
[時間が(概念としてではなく)実在するかという議論は一先ず措いて]この瞬間から全ては過去に変化してゆく。過去は容易に失われる。残された記録の正確性を担保する物はなく、記録を読み取る行為は解釈にすぎない。そう考えると実存とは記憶の連続性の先にぶらさがる淡い幻なんだなと思えてしまう。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2017年8月6日
以下は某ツイートにぶら下がっていたコメントに対してわいた怒りを理性で抑え込もうとした時のツイート。ある差別を受けている人々に対し、「こういう(心理的恐怖心を)抱かせるような得体のしれなさがある」という主旨のコメントをしている人がいて、自身の不理解と不勉強を根拠のない差別意識に押し込め、気持ちわるいと公言してしまうことの気持ち悪さ。ああ、私はまだ腹が立っているのだな。
理解のできないことを蔑んだり否定するのではなく、「理解できないから処分を一時放置する感情box」に放り込んでおけたらよいのにな。
自分の不理解を理由に何か/誰かを蔑む行為を私はあまり理解できないのだけれど、そうする人を蔑む行為もまた差別という同じループの中に等しく組み込まれてしまうということに自覚的でありたいと思う。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2017年8月6日
宵闇のなか、テッポウユリが咲き始めた。見事な直角。曲がっているのになぜか真っ直ぐな美しさがあるんだよな。