風鈴

猫 サイエンス 哲学

波打ち際

ぽくぽくと年末年始をかけて書いていた年賀状をようやく投函した。添えるひとことが浮かばないひととお返事が毎年ない人の分はそろそろ減らしてもよいかもしれない、と考えている。
日曜日のゆうゆう窓口は長い列の先頭に立っていて、暖かな日射しを浴びて並ぶ人達は殆ど縮まらない先頭との距離を諦めたかのように受け入れている。これほど苛立ちを感じさせない行列は、初めてかもしれない。ここだけが春であると錯覚する。名前もいいよね。ゆうゆう。なんか騙されちゃう。


独りでいることからくる寂しさの殆どは、誰かと居ることを"当然である" と価値付けた社会的な見方を通しての寂しさなのではないかと感じている。誰にも見られていなければ「寂しさ」は私たちに対して何の攻撃性ももたない。
何かを誰かと分かち合わなければ価値は価値をもたないのか。
自分の考えや想いを自分以外の誰かに理解される、受容される。そうでない状態は本当に"さみしい"のか。

誰かと関係性を築くことに対して何かの意味づけをする必要性はないと思うのだけれど、少なくとも道具や手段としての関係性は回避したいなと思う。私に空いた孔を埋めるのは私以外の誰にもできはしない。埋めなくてもいい。ただ、そこにさみしさがあったとしても、あるがまま置いておけばよいのではないか。


少しひどい風邪をひき、一日中浅い眠りを繰り返した。今日はかなりよくなったので、ずっと行きたかった冬の海へ。
夕暮れ時の海岸には20人くらいの男女が部活ジャージで水遊びしていたり、お父さんがちびっこの手を握りぐるぐるまわしていたり、よい風を捕まえて凧をあげている人がいたり、いっぬにフリスビーをとってこーいしている人などがいた。私は波打ち際ギリギリまで攻めて足元を濡らす前に逃げる遊びを繰り返した。
そうして景色の一部に溶けて夜を迎えて。

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Have a great New year

年末。
大掃除を淡々とこなした。
物を棄てるのが苦手な性分だが、えいやとがんばって処分した。
誰も代わりに棄ててくれはしない。買ったからには、最後を決めるのも自分自身で。そういう責任の取り方をしたいなと思った。

苦手なことを1つずつクリアしてゆく。
人生のレベル上げ。
「自分はこういう人間だから」と自覚し諦めているような部分こそ、変えることができるかもしれない。まずは適切に棄てられるようになりたい。

今年はカリグラフィを始めたので、〆にご挨拶。
コツコツ続けて少しずつでもよいから上達してゆければ嬉しいな。

読みに来てくださり、ありがとうございました。
よいお年をお迎えくださいませ。f:id:natsukiss:20171231235225j:plain

結び目

帰路。
午後半休にて仕事納め。
今年も、会社の近くにある小さなお稲荷さんに挨拶と本年の御礼を述べてきた。

私は特定の信仰をもつわけではないが、アニミズムの要素を核にもっていることは自覚している。
精神とはなにか。
魂とはなにか。
これらの原理が論理的かつ再現性のある手法で検証され、定義される日がいつかくるのだろうか。今はまだ、信仰の一種として私の中に留まっている。

アニミズムについてではないが、ひととひととの関係性が及ぼす効果についてもしばしば考える。人間関係もまた、生命をもつかのように脈動している。鉈をふるったり、都合のよい展開を連れてきたり、徒に翻弄したりする。どんな存在であろうと自分の在り方が無であることはあり得なく、1度存在したからには無になったとしても何らかの影響を(誰かの)世界に対して与えることは避けられないだろう。己れのふるまいが人間関係を伝わって及ぼす影響は、それこそ蝶羽の微かな瞬き以上の効果をもたらすであろうという信仰が私にはある。


故に、小さなお稲荷さんに頭を下げる。
お稲荷さんは、謂わば代表なのだ。
私が影響を及ぼすであろう凡ての事象に対して私が抱く感謝を受け止める立場として。
また、私が頭を下げることで私自身が負うべき自分自身の行動への責任表明を聞き届ける役割として。
巡り廻る連結した円環の一端の結び目をもう一度硬く締め直すかのように。
そこは私の世界と繋がっている。





このあと理解についてばうむさんと話し合ったのだけれど、彼は、ヒトには「理解した」と感じるスイッチのようなものが備わっているのではないか、という考えをもっているらしい。だから「理解した気になっている人」が存在するのではないか、と。
なるほど、面白い考えだと思う。
そのスイッチの存在の是非についてはわからないけれど、「理解した気になる」という現象、私は、相手の提示した要素を用いて、相手とは違う論理を構築した結果起こることなのかなと考えている。


クリスマスが終わったとたん、街が一気に年末モードに変わり果てている。毎年のことだけれど、寂しいようなきもちがある。私にとっての年末年始、お祭り気分というよりも厳粛に心を切り替えるような感覚が強い。寒さのせいなのかもしれない。

45分

残業で遅くなってしまったので、指定席特急の中で夕飯を食べながら帰宅する。パサついたコンビニのサンドイッチをホットコーヒーで流し込み、ひといき。
時間を金で買う。おおよそ45分間。
座るために電車を何本かやり過ごす時間、帰宅してから夕飯を食べる時間、いつもの電車では停車する駅を飛ばす時間。速く帰宅できる分延びる睡眠時間。ストレスの軽減も買う。帰宅するまで空腹に耐えるストレス、座席確保の争いと混雑でギスギスする車内に息を殺すストレス。数百円で買えるメリット。明日の朝も早い。

通勤電車では往路も復路も窓の外の景色を眺めることがない日々を過ごしている。大きな橋を渡るときに河面を反射する朝陽にふと顔を上げるくらいだ。アオサギが優雅に滑空する様を見ることができるかもしれないと期待する。今なら見る余裕があるのだけれど、窓の外は沈黙している。時折フラッシュのように各駅停車駅のホームが煌めき、遠ざかってゆく。

斜め後ろのスーツの集団が缶ビールを開けながら談話している。人間工学的には45分に1回休憩が理想的なのだと力説する。カシュッ。ゴクリ。チャイムが鳴り、給食を配り、食べ終えたら校庭へ駆け出す友人たちを見送り読みさしの本を開く小学生の私。夜を映す車窓に、やはり本を開く私が浮かび上がる。人間工学的に理想的でありたい。45分ごとに刻まれる生活。時間割を眺めながら忘れた教科書を借りにゆきたい。

何千何万の45分間を見送ってきた。
有意義だと思われる時間も、そうとは決められない時間も数多く流れてきた。
今夜買った45分はなかなか悪くない。いつかまた、今夜のことを思い出す夜があるだろう。そんな45分間、1回、休み。

回転数

最近は手入れが必須で面倒な小物を増やすことにしている。短いスパンで買い替えるようなアイテムへの興味が薄れて来たのだと思う。昨日はよい靴を買った。オイルレザーのショートブーツ。
おろす前にブラシをかけてクリームを塗り、防水処置をした。待ちきれなくて今日履いて出たのだけれど、よいね。軟らかく包み込むような風合い。生き物の気配。
私は履いてゆく靴を決めてからコーディネートを決めることがよくある。靴のお陰で着こなしのバリエーションの拡がりが増えるように思う。
一方、バリエーションを減らすために、そろそろ手放そうと考えている靴もある。なかなか物を棄てられない気質は少しずつではあるが、変わりつつある。



雑多な感情が行き交うSNSを少しの間眺め、そして閉じた。
消費される時間と削られる感情。
人は過去を積み重ねてきたその先に解釈を構築する。


人生をドライブするために本を読む。議論する。愛し合う。感情を動かし己れを改変し、日々生まれ変わる。回転数を上げて疾走。能動的であれば取り込むデータの量は増えるだろう。しかし。
リバネスの丸さんが言っていた「同じデータを見たとしても、人によって見え方は違う。それまで積み重ねたものによっては筋道が見える人もいる」という言葉を噛み締めている。
ただデータが増えればよいというものではない。
道筋を見るのだ。
点と点を繋ぐ線を見つけて意味を見いだす。そのために疾走している。

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今年は玄関に、リースの代わりとしてこのサンタ熊をぶらさげた。
開ける度にゆらゆらり。いってきます、おかえりなさい。ゆらゆらり。

一次発信

担当していた研究発表が終わり、一息つきながらの帰り道。比較的ましな時間に退社できたのでちょっと嬉しい(こういうときは大概電車が止まるので時々ジョルダンライブを眺めている・・・)。


気がついたら、Twitterのタイムラインを眺めていてもあまり楽しく感じない。自分で作成したリストをざっとチェックして閉じてしまうことがしばしばある。ここ最近ずっと忙しくしていてあまりゆっくり眺める時間がとれなかったというのも一因なのだけれど、どうやら原因はそればかりではないようだ。


個々人によると思うけれど、私のタイムラインの場合、「~さんがいいねしました」というツイートとRTが長々と並ぶ。いいねやRTされるようなツイートは既に物凄くRTされているような "ウケがよい" ツイートがかなりの割合を占めている。それらがタイムラインを占拠しており、誰かの何気ない日常のようなツイートは時折ぽつりぽつりと流れてくるばかり。
確かに「ウケがよい」ツイートは面白い。濃縮され解りやすく、一瞬で心奪われるような魅力。大多数の人々の心というメッシュでふるい分けされ、生き残ってきた百戦錬磨の感興たち。私ももちろんキライではない。

しかし私はそのような面白さばかりをTwitterに求めている訳ではないのだなと気づかされる。
「誰かに決められた/抽出された面白さ」ではなく、泥臭くて雑多な人々の日常から「自分が」何か面白いものを拾いあげることを、何より楽しみにしているのだ。

限られた時間というパイを奪うために効率化し濃縮された面白さという種類の刺激は便利ではあるけれど、同時に見つける、選ぶ、決定するという人間の欲を削ぎ落とすものでもあるのだ。私がTwitterに抱いている欲と刺激は、後者に類するものだったみたいだ。


そんな訳で、今の公式のシステムは私にとってあまり魅力を感じることができない場になっている。クライアントを変えてみたら解決するだろうか、などと考えてもみたのだけれど、このまま少しずつ離れて行くのもよいのかもしれないな。欲を削ぎ落としてくれるなんて、逆に有難い話じゃないか。

デパートの敷地内、植え込みの片隅に見つけた植物なのだけれど、同じ種類の葉でこんなに多彩なものは初めて見た。さりげない発見を提供してくれるというのは実にセンスがいい。
電車の進行はスムース。
ゆけるところまでゆきましょう。

世界思考

過去の研究成果を踏まえた上に新しい発見や知見が生まれてくることを考えると、個人だけでなく世界全体で思考しているのだなあとしみじみ思う。

我々は知覚し思考するひとつひとつの細胞で、社会でそれらがネットワークされ、世界というひとつの脳として更に統合された思考をするというイメージがいつもあるんだ。

ググったら似たような概念として、集団的知性という理論がヒットした。
大まかにいえばそのようなイメージ。集団自体に知能や知性が宿るような感覚。
但し厳密にいえば、私の考える集団とはカテゴライズされたクラスタを指すのではなく、人類そのものを想起している。


「新たに発見される知見」は、加算であり、それ自体に時間が進む方向への流れを含む。
忘れる(減算する)ことで時間の流れを逆走するかもしれないが、集団的知性に於いては忘却という措置がとりにくくなる。記憶装置が複数設置されている、つまりはバックアップが万全である状態にあるから(蛇足ながら、否定的知見も加算方向である)。
発見が重なれば時間は進む。
そんな愚にもつかない想像をしながら過ごしていた。非生産的態度をこよなく愛しているんだ。


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鮮やかな朝焼けを見た。
枯れ葉がひらり肩に落ち、暫く一緒に歩いた朝。