風鈴

猫 サイエンス 哲学

世界思考

過去の研究成果を踏まえた上に新しい発見や知見が生まれてくることを考えると、個人だけでなく世界全体で思考しているのだなあとしみじみ思う。

我々は知覚し思考するひとつひとつの細胞で、社会でそれらがネットワークされ、世界というひとつの脳として更に統合された思考をするというイメージがいつもあるんだ。

ググったら似たような概念として、集団的知性という理論がヒットした。
大まかにいえばそのようなイメージ。集団自体に知能や知性が宿るような感覚。
但し厳密にいえば、私の考える集団とはカテゴライズされたクラスタを指すのではなく、人類そのものを想起している。


「新たに発見される知見」は、加算であり、それ自体に時間が進む方向への流れを含む。
忘れる(減算する)ことで時間の流れを逆走するかもしれないが、集団的知性に於いては忘却という措置がとりにくくなる。記憶装置が複数設置されている、つまりはバックアップが万全である状態にあるから(蛇足ながら、否定的知見も加算方向である)。
発見が重なれば時間は進む。
そんな愚にもつかない想像をしながら過ごしていた。非生産的態度をこよなく愛しているんだ。


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鮮やかな朝焼けを見た。
枯れ葉がひらり肩に落ち、暫く一緒に歩いた朝。

マニュアル

丁寧にひとつひとつの景色を解きほぐし記憶すれば、もう少し焦点が合った生き方ができるだろうか。
誰かの言葉、与えてくれた感情、この身に起こった出来事。解像度を上げて感情と共に刻み込み、写真のように記憶したい。
私の目は外側に向いていない。過去の自分と巧くリンクしていない。いつもそう、今の自分がどうあるか、ただそれだけを生きている。


自分と対象との関連付けの訓練。
認識の精度をあげること。
心だけでなく身体を使って味わうこと。
連想の幅を拡げ、脳内検索でヒットする確率を上げること。
一瞬を刻む。

虚栄心

あなたもきっとこれが好きだと思う、と言いながら差し出せる相手、私にとってはあまり数多くない。その行為は理解と安心に裏打ちされた関係性の上に初めて成立する。
大抵は何も言わずにそこに置いておき、選んでもよい、選ばなくてもよいという情報と状況だけを提供する。主体的選択に対して干渉するかしないかは、私にとって親密感と親近感の分水嶺のひとつであるのかもしれない。
それから私はたぶん、「自らの意思で選ぶ」ということを、とても大切に考えているのだと思う。


Twitter長門先生が自分にどんなバイアスがあるかについて考えていらしたので、つられて考えていた。
私の場合、メサイアコンプレックス気味なので「自分なら何とかしてあげられる」と感じるような相手に自然と近づいてしまう傾向がある。だからこそそう感じる相手には特に、なるべく近寄らないようにしていたりする。
弱いところを補い合いながら生きてゆくのは大切なことだし生存戦略としても有効だと思うんだけど、私の場合それがメインだと共依存的になってしまうんだよね。相手とがっつり向き合うよりもそれぞれ進む方向がだいたい同じ、というような在り方の方が長期的に上手くいくみたいだ。


なぜ自分がメサイアコンプレックス気味なのかについて自己分析を試みたことがある。
自分自身では生い立ちやこれまでの人生の在り方について不幸だと感じたことはないのだけれど、他の人達に語ると決まって「大変な人生だったね」と評価される。
もしかしたら私は、不幸だと感じたことがないのではなく、感じないようにしていたのではないか。
お決まりのパターン。「私は幸福なのだから、他の不幸なひとを救う力と義務があるはずだ」
無意識にそのように考え実践することで、私は私自身を救おうとしてきたのではなかったか。

生い立ちは自分では選べないので仕方ないことを含むけれど、それ以外の事柄については基本的に自分の意思で選択してきたことだから、その選択がもたらした結果については自己責任で引き受けたいと考えている。
幼さや拙さ愚かさがもたらした結果だとしても、それは自分で選んできたことなのだと。
そうして自分で選択したことが失敗であったと認めたくない。失敗ではなかった。だっていま、不幸ではないから。そんな逆説的なロジックで自分の心を誤魔化しているのではないか。
そんなことを考えていた。


幸福でなければならないという決まりなどありはしないのに、なぜ幸福でなければならないと考えてしまうのか。
それは誰にとっての幸福であるのか。
虚栄心や自尊意識の顕れではないのか。


不幸になるような選択をしてきたこれまでの自分の愚かさを他人に見抜かれないように、いまは幸福なふりをする。そんな自分の矮小さを自覚したのでした。
よいもわるいもなく、ただあるがままを自覚しよう。



返る音がまた1オクターブ上がった気がする。硬質な空気、透明度が増す街並み。
荷物を肩からぶら提げて両手をポケットにしまいこみ、葉を落とした街路樹の影をよけながら歩く。step、step。
髪を剃り上げているせいではっきりと見える前を歩く男性の頭蓋骨のカーブにヘッドフォンの半円がフィットせず若干宙に浮いている。
さよなら、11月。

我欲の罠

思い返せば、これまで去る者は追わないという行動が、リアルでもTwitterでも、自分がとってきた唯一の選択だった。


「縁を切る」というその人の意思決定を尊重する気持ちもあるし、私自身の自尊意識もある。あとは何より、追いかけるほどに去られたことに対する傷が深まるように思えるのだった。


傷の大きさは大抵、自分の思い入れの軽重に相関性をもつ。大切だと感じていた相手から(様々な事情があるとはいえ去られたとき)自分が思うよりも自分は大切に思われていなかったというひとつの推論にたどり着き、哀しみを感じてしまうということなのかもしれない。


どのような関係性であれ、心を寄せる重さを量ることは不可能であるし、全くの同等であることなどほぼあり得ないと考えている。それでも、いやそれだからこそ、相手に対する期待は具体的な重さを量られることなく心に浸積し、相手の存在と分離できない感情としていつしか生着してしまうのだろう。


最初から相手に対して期待/執着しないように接することが心の自衛手段として最善手であることを、経験則では知っている。しかしそのような在り方をするりと抜けてくる魅力的な人がいる。そういう相手と相互作用し続けるのは幸福であると知っているが故に嵌まる我欲の罠なのだと自分では感じている。

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埋める

静かに命を命に変えてゆくカラスを見た。明け方の街。
カラスが鳴き声で仲間を喚ぶというのは本当なんだなと思ったりした。

何故か今日いちにちを通して、死のテーマが話題にのぼることが多い。
相互連関のない関係の死は無に近いのにコンテンツにしてしまえるほど無邪気に語れはしない。素通りできずに目を向けて、目を伏せる。そんないちにちだった。


中間面談で「もうちょっとイケるので業務量増やしても大丈夫ですよ」と言ったらえげつない増えかたをした。圧倒的感謝。つらい、けど、つらいと言いながら生きていたい。仕事に追われていると生きている感じがする、と以前何処かに書いたけれど、今でもそう思っている。追い立てられたい。人生の密度を高めたい。圧縮して詰め込んでぎちぎちに濃く生きて、いつでも後悔しないように終われたら。
虚しさを感じたくないというある種の欲が、私の人生を駆り立てる。何かを遺したいのではない。私が何かを埋める代わりに何かが私を埋めてくれる、Give and takeの循環を生きている。

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拡げつつ閉じるということ。

彩度の低い朝。
ここ2日ばかりは街が美しく色づいて見えたので、明け方の金星を思い出しながらのそのそと起き出してみた。
猫の耳に薬を滴下する。
膝の上で円くなった猫は、尻尾の毛繕いをはみ出して私の脚も少しだけ舐めてしまう。ざらざらり。
糸状乳頭というネーミングは不相応なのではないか。鮫肌乳頭に改名しようよ。ワサビもおろせるはず。


何か物事を判断する際に関わってくる重要な構成は大まかに分けると3段階あると思う。
根拠となる素材、素材を組み立てる手法、そこから導き出される結論。
「了見が狭い」という表現があるけれど、「了見」はこれらの構成のうち全てに深く関与する。そして了見を拡げるためには適切な「学び」が必要なのではないかと私は考えている。


学びのその先にある自由について考えていた。

学ぶことで、未知と既知を区別できることが増えてゆく。そして既知のトピックに対しては解決法や答えをもつことができるということでもあるのではないか。
学びはもちろん学問だけではない。他人、或いは自分自身の心の動きもそうだ。「なぜそのような反応をするのか」「なぜそのように捉えてしまうのか」動きを1つずつ追うだけでは決して理解できない。しかしその原理を知っていれば理解できる事もある。理解できなくてもよいのだと思う事もできる。
そのようなことを。




今でも時々、誰かに伝わることの必要性を疑い、祈りの世界をさまよってしまうことがある。
自己満足以上の満足が、この世界に果たして存在するだろうか?
その思いがどこか抜けきれずにいる。
ただ、少しだけ変化したことがある。自分の中だけで閉じていた論理の環を身近な他者まで拡げつつ閉じることができるようになってきた。
これが好ましい事なのか否かの判断は未だ難しいけれど、やってみようと思うんだ。やり続けてみよう。

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クリスマス・ブッシュを購入した。
白い花が咲き、そのあとに成長したガクが赤く染まるというオーストラリアの木。
星を散りばめたような形。
愛らしくたおやかに美しい真夏のクリスマスを想う。

濁流

布石を打った訳でもなく単なる僥倖に過ぎないのだけれど、物事がうまいこと作用したなと思える出来事があった。おかげでこの場所を静かに保つことができる。
過去に置いてきた言葉は確かに私の内側から産まれたものだけれど、それは成長の記録を綴じたアルバムのようなものだ。私は自分で考えているよりも、「過去より今、この瞬間」を大切に思っているみたいです。

ターミナル駅を通過する。
人の動きがまとまって流れをつくる。泳ぐ?泳がない?この濁流に呑み込まれたら、浮き上がることは難しいだろう。いっそ流されたのなら、何処かに漂着するのだろうか。
この街の高層ビル群の一角には黒い猫が実在している。ビルの箱を開けたことは、未だ、ない。


数多くの都市名が並ぶ訪問者の記録。その殆どは聞いたことはあるが訪れたことのない土地だ。
そこに住む人がいる。
生きて呼吸して時に感情を飼い慣らしながら食べて寝て、そして私の文章を読みにくる。電子に変化し空間を超えた私の言葉を受け取り、その人の生活の一部となる。
何度想像しても不思議さしかない。

本当は知っているはずの人と他人のようにすれ違う大都市も。本来触れ合う筈もなかった世界とクロスしているこの空間も。違えた位相。


コーラン』を読み終えてしまった。異文化の生々しい手触りを遺して。違いを認識することで逆に近づくという反作用が生じる場合もあることを識る。
貧困と不平等と抗えない生まれついての血脈に押し込められた反動は、回教が産まれた理由に少しは寄与したのだろうか。社会もまた、人が作る濁流なんだな。


「何のために生きている?」
そう問われて私は、目的はない。そこにある生を生きているだけと答えた。
かつて、生は選べないのだから最期くらいは自分で選びたいと考えていた。
今では死を、自分では選べなくなっている。
正確には、選択できないという選択をしている。
過去の自分が積み重ねてきた分の人生が追いかけてくるようだね。