風鈴

猫 サイエンス 哲学

tranquil

理由を説明できない感情に名前をつけるのが下手なんだ。


文章書きを志していたとしたら、嫉妬もしただろうな。心に立つ波風をうたにして、音や匂いを文字列に変換する装置でありたかった頃ならば。

自分の中の枯渇を感じた瞬間、向いていないことを悟った。リソースも一貫した哲学も飛び抜けた感性もないのに、恥の概念が強すぎると言い訳しながらそこから逃げた。
自分の才能に見切りをつけるのは苦しみではない。見切れずにしがみついていることに比べれば。

一抹の希望というのはよく光に喩えられるけれど、私は砂糖なのではないかと思っている。
過剰に摂取すれば肥え、病を誘因し、常習性がある、史上最悪の科学物質って誰が言ってたかな。



旧知の親しい友人から半年の間に結婚と離婚と再婚と妊娠の報せが届き、混乱している。まあそんな事もあるのだろう。抗いようのない流れに巻き込まれ、決断をしなければならないようなポイントが人生に時々用意されていて、人はそれを運命と呼んだりするのだ。
実際は思考と選択の上に構築された線路の分岐点であったとしても。

答えが自分の中に既に用意されていそうな問いなのに、実は外部にありました、という事実が不思議な感覚を喚ぶのかもしれない。
脈々と受け継がれた遺伝子と、生きてきた環境に適応するため与えられたエピジェネティックな修飾が 答えにヒントを添えるのだろう。

私はどういう人に惹かれるのか。
惹かれてからでないと、その答えは出ない。

昨日、会社で歯磨き中に「おはよう」と声を掛けられて「もごもご(おはようございます)」と返事をしたらその人がこちらを振り返って目が合って、そしてふふっと笑われた。そういうのに救われるんだ。


起こるできごとその全てを記憶する事は叶わないけれど、瞬間を味わうことはきっとできるだろう。
今頬にあたる風、陽の光が揺らす影、隣に座る他人の温もりと呼吸音を感じながら、断片的に聴こえてくる会話の単語を拾い、物語を編んだりすること。


生活はリズムだ。ルーチンは鼻歌を唄いながら片付けて、イレギュラーなイベントに感情を揺さぶられてセッションして、ミスを繕うように緩急つける。生活はそうやって、「その人だけの曲」を奏でるんだ。


人と話していると声が掠れて時々巧く喋れなくなった。
セルフメインテナンスレスキューが必要だ。
午後半休をとった。
文房具屋さんで来年度のビジネス手帳を2冊(マンスリー見開きと、週単位見開き)購入。予定表は視覚を大切にしている。美しさではなく、どこにどれだけ何が詰まっているかがわかるかどうか。予定を分散して負荷を均したり、集めて空白を造る。
私の仕事は自分の予定を自身でマネジメントしなければならない部分が大きいので、手帳は割と生命線だと考えている。
それから本屋さんで単行本3冊+文庫本3冊購入し、それを持ってタリーズへ。気になっていたアップルオーチャードティーを選ぶ。
角切り林檎が沈む甘い紅茶。夜の手前、夕刻の色をしている。
飲み終えたらそのまま肩のマッサージやさんへ。
私の凝りに対して効果が高そうな手法の施術者さんだと感じた(同じ店でもひとによって手法がかなり違う)ので、よく覚えておいて家でも真似しよう、と意識を集中しながらマッサージを受けた。
帰り道にケーキ屋さんでかなり堅めのクッキーシューを買い、珈琲をドリップして。
今日は何も自分に禁止しない。そんないちにち
(時間に余裕がある分、いつもより長いブラッシングとマッサージとお膝だっこをしたせいか、猫たちがしあわせそうである。私も、しあわせ)。

ケルビン・ヘルムホルツ不安定性

まともであろうとする、という状態は既に狂気の端に呑み込まれているような気がしている。



光の中にいる間は闇がなければ光が存在しないということを忘れてしまうのと同様に、まともさは失われた時に初めて感じられるもののように思う。


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明け方、ケルビンヘルムホルツ不安定性の波状雲を見た。
以前、荒木健太郎先生のツイートでこの雲状の話題が出てきたのを頭の片隅で記憶していた。
2つの異なる密度の対流によってできる特徴的な雲形。
これから先、何度この形を見かけても、呪文のように唱えてしまいそうだ。

プリズムシート

今年もつくば高エネルギー加速器研究機構(KEK)の一般公開に参加してきました。
毎年9月の第一日曜日が公開日なのですが、今年は気持ちのよい秋晴れに恵まれ、KEKの広大な敷地内をお散歩しつつ色々な加速器をみて回りました!と言いたいところだけど、到着した時間が昼過ぎだったので、そんなに沢山は回れず。
絶対に聴きたかった講演を1演題と、スタンプラリーを集めるための各施設タッチアンドゴー。ポスターは更新された最新の内容を眺めるに留まりましたが、楽しかったです。





研究本館での講演は最後の末次先生の、KEKBのBELLE Ⅱについての演題のみ聴講。2016年6月に試運転を終え、調整等ほぼ順調に目標達成とのこと。
2018年初頭からBELLE Ⅱ実験を開始し始め、ひとまずKEKBと同程度のルミノシティが目標。
12月からは全測定機器を整え本格的に始動だそうです。
ちなみに最終的に8.0×10^34 cm ^-2 S^-1という高衝突頻度のルミノシティを目指しているけれど、実現できそうな手応えを感じているとのこと(末次先生談)。ぶっちぎり世界一のルミノシティ、楽しみです。


写真に写っている缶バッヂはフォトンファクトリー(PF)のクイズ全問正解景品(最後に答えを教えてくれる嬉しいアレ)。
今年は猫先生柄二種とキジ、ウサギの全四種類でした。どれもKEKに生息していると、教えてもらいました。ちなみに雷鳥もいる、らしい・・・(ばうむさん情報)。


プリズムシート、高校生の時に慕っていた地学の先生から貰ったことを思い出している。小さなシートの切れ端を片目瞑って覗き込んだ日のこと。
先生は、昼に準備室に遊びにゆけば自慢の鉱石コレクション見せてくれ、夕方になれば天体望遠鏡を取り出して覗かせてくれ、月や惑星を追いかけた(赤道儀がついていなかった)。
時々「腰が痛いんだよ、ちょっと揉んでくれよー」などと頼まれて友達と二人で「しょーがないなぁ」と言いながらマッサージしてあげたりした。今から思えばあの頃から、病が進行していたんだな。
私が卒業して1年後、急に旅立ってしまわれた。
このプリズムシートで、虹だけでなく思い出も捕まえることができたみたいだ。


今朝はうっかりスマホの目覚ましをかけ間違え、いつもより30分遅く起床した。よく起きられたものだな。じぶんえらい。
スマホ(というよりは寝ぼけた状態の自分の機能性)が信頼できないので、アナログの目覚まし時計を買ってこようと思います。なんだかちょっと楽しみかも。

溶かす。

Twitterを眺めていると雑踏の中に紛れている気がする。知り合いと時々すれ違う雑踏。でも、ふと顔を上げると、しんと静寂。
Twitterには人の温もりがあって、開けば確かにいつも誰かがそこにいるということが、孤独感を遠ざける側面は間違いなくある。時には現実の付き合いより深い話ができたりもするし、本当に運用次第なんだなということを感じている。
私はずっと何年もツイ廃人間だった。しかしここ一年位、平均ツイート数が最盛期の1/3~1/5程度に減った。それはひとえに、読書時間を確保したかったからなのだけれど。実際、読書量は数倍増えたな。


時間は溶ける。何に溶かすかは自分次第だし、自分が納得できる使い方ができるのなら、それがよいと思う。Twitterでも、よいと思う。私の場合はTwitterではなく読書だった。そのことにようやく気づけたところ。
ただ、大切なことを沢山学んでいるし、人生を変えるような出逢いの多くをTwitterから得ることができたことも間違いない。私にとってこれまでTwitterに費やした時間は、無駄ではなかったと思う。これからも、きっと無駄ではないだろう。


気持ちのトリガーみたいな歌を口ずさむ。
何もせずに手に入れたいと駄々を捏ねる自分を恥ずかしいと思える程度には外側から観察できる。
だから伝わりませんように。
伝わりませんように。

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人生を変えた出逢いを、思い返してる。
人だけじゃなく、断片的な言葉や感情、本や情報などから「与えられた」ものもあれば、奪い或いは去りゆくことで「失われた」ものもある。
楽しいこと嬉しいことばかりが人生を変える訳ではない。けれどそういうものも含めて今の自分が在るということを噛み締めているんだ。

解釈

恣意的でない世界が存在するとはどうしても思えなくて、考えながら幾晩か過ごした。
世界とは、解釈だ。
あるがままをあるがままに、誰の目も通さずにただ存在するものは、無に等しい。
分節から無分節、そして再び分節されるその世界にのみ、恣意性がないのではないか。そしてそれを獲得できたとしても(今の技術では)誰とも共有不可能なのだと私は考えている。

一番星

かつては「こう言えば格好よく見えるだろう」と、人からの見え方を気にかけた発言をすることもあった。悪く言えば綺麗事であり、自分だけが知っている理想と現実のギャップは背信に似ていて、自身の人格の薄っぺらさの証左でもあった。しかし裏を返せばそれは「こうありたい自分像」の表明でもあった。
口に出したからにはやらねばならぬ。現実はいつでも理想の後追いだけれど、そこに目指す姿が見えているのなら、あとは追うだけでよいとも言えるのだった。
理想像に追い付くことは、ないと思う。後追いは生きている限り続くのだろう。でもきっと、それでよいのだ。人は生涯をかけて、なりたいような自分になってゆく。往きつ戻りつしながらも。



日曜日の神田神保町へ。
シャッターが下りているお店は多かったけれど、それなりに楽しめたと思う。新刊書店も本の陳列に個性があり、一般書店では棚に数冊並ぶ程度のマニアックな文芸書が平積み面展になっていたりする。

この古本屋街を訪れたのは記憶が確かならば10年ぶり位だった。1つずつ目につく本屋さんに入っては、棚を隅からゆっくりと見てまわるのは至福であった。手にしては戻し、手にしては戻し。しかし結局私はただの一冊も、購入することができなかった。
目に飛び込んでくる美術書も哲学書も、敷居が高いというほどではない。相応の値段を支払えば手に入るはずだった。でもなぜか、自分が所有すべきではないと感じたんだ。
在るべき場所に在る方がよいのではないかという感覚。もしかしたらそれは、それらの本に対する敬意のようなものなのかもしれない。いや違う。本当は、己の不勉強さが、知性に叩きのめされたんだ。私は、圧倒されていた。うず高く積み上げられた先人の知性に。

対等な目線であの棚の前に立つことができるようになりたい。



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