風鈴

猫 サイエンス 哲学

もうそろそろ0%

長めの残業。
昨夜の寝不足のせいで80%程度の開眼率。
帰り道に難解な本を読む余力が残っていない。せめて寝落ちてしまわないよう、久しぶりにblogを更新してみたりする。誕生日というのは理由もなく佳いことだけが起こる気がして、でも実際はその期待値の分が裏切られ、結局ロクでもない日になる確率が高い。おそらく平均すれば極めて平均的ないちにちなのだろう。

幸せというものが物質や他者からもたらされるものであると考える人が周囲に意外と多いように思う。考え方にもよるが、あれはたぶん才能だ。幸福感受性という身体能力。先天的、或いは後天的な要素に影響を受けるため、この能力には個人差がある。幸福を感じにくかったとしても、自己責任の範疇は狭い、そんな風に考えている。

開眼率が60%を下回る。
家まで最短時間で辿り着きたい。

目の前でつり革に掴まる女性が片手で手荷物を網棚に上げる。Tシャツの裾がずり上がり、ヘソピアスがちらりと見えて少しだけ目が覚める。彼女にとってこれは予定調和だ、惑わされてはいけない。


某所で見かけたマウンティングめいた行為に浅ましさを感じた。感じてすぐに、それもまた私からその人に対してのマウンティング行為のようなものなのだと気づかされる。
私は潔白ではない。
私だけが潔白なのではない。
浅ましいのは自分なのだと気づかされる。
浅ましくてもよいから、気づいていたいよ。

Miscellaneous notes

【秘匿】
自分が密やかに大切にしているものを踏みにじられたくないという気持ちがあることをふと、自覚する。

大切なものほど秘匿する性質が私にはある。

私が秘匿する理由は以下のふたつが想定される。
ひとつめに、開示が自身の羞恥心に関わるケース。
ふたつめに、独占/所有欲に起因するケース。
私の場合、後者の理由が圧倒的な割合を占めている。


【信頼】
私にとっての信頼とは、「自分が見積もった分と同等かそれ以上のパフォーマンスで応えてくれるという期待」のことを指すかもしれない。
例えば仕事ならば「ここまで任せても大丈夫かな」と思える事、恋愛ならば「この人は裏切らない」と感じられること。
見積りは相手の、或いは自分の状況に応じて変動する。自分の状況がある程度把握できていないと正しく見積ることは難しいし、当然相手に対して期待する部分についての理解もまた必要になる。何も情報がない相手を信頼するのが難しいのはそのような理由があるからなのかなと考えている。
しかし信頼、比喩ではなく言い換えで説明するのがとても難しい言葉だ。この言葉それ自体で説明が完結している表現という感じがする。

【接続と伝達】
私からするとTwitterでのRTやふぁぼはweb上に張りめぐらされた神経に起こるスパークであり、刺激であり、接続と伝達の存在様式の可視化であるといった感覚がある。言葉は身体機能の一部を拡張する道具でもある。遠くフォロー外まで自分の言葉が届いて何らかの現象が起きているとしたら、それは自分の発した情報刺激がもたらす遠位端での作用とも言えるかもしれない。
また、人間同士が(グリッドコンピューティングのように)ネットワークで繋がり1つの集合知を形成していると見立てた時、言語や態度を介して伝わり他者の感情を自己の中に再現するタイプの「共感」はケーブルを経由しない神経伝達物質のような働きをするとも言えるんだな。

【】
寂しさと虚しさ、よく似てるけど違う。誰かといれば虚しくならない訳じゃない。独りでいても寂しくはない。
充実していない状態を寂しさと勘違いしてしまうことがあるけれど、あれは寂しいのではなく、虚しさなのだな。誰かに埋めてもらうようなものではなく、自ら何かで充たすことが必要なんだ。

【空】
空箱、「からばこ」じゃなくて「そらばこ」だとしたら、ふたを開けた瞬間に壮大な景色が拡がるんじゃないかなどと考えながら歩いていた。腕の中に「空を閉じ込めた箱」を抱えながら。


【部品】
書物や会話や行動や思考などから獲得された個々人の「知」が部品の1つとして集積或いは継承され、総合的に「大きな知」を形成してゆく様を思い描く度、この世界に存在する総ての人々がその壮大なロマンに組み込まれているのだなと気づかされる。

A : abstraction【抽象概念】

心に浮かんだイメージを言語化せず、絵に表すこともせず、喩えることもなく、心に浮かべたままにしておく訓練みたいなものを時々行っている。

それは見えない。
それは聴こえない。
味もしない、触れることができない。
けれどそこに『在る』イメージ。

感情であったり、思考であったり、問いに対する答えであったりもする。

人と解りあおうと考えたとき、抽象概念をある程度具体化し、イメージに実在性をもたせる必要が生まれてくる。また、人が独りであるならば言語は生まれなかっただろうとはよく云われるけれど、記憶にしまいこんだイメージを任意に取り出すためにはある種のフックが有用であることから、言語までは至らずとも、イメージを何かしらの現象と結びつける行為を、我々は自然と行っているだろう。

表現をしなければ、出力をしなければ、共有しなければ、それは「無」であるのか?
「私」はむしろ、抽象概念という宇宙に浮かぶ小さな星に住む小さな生物に過ぎない、と思う。

それは確かにそこに『在る』。

習慣

心を鎮めるためにここにきた。

Twitterは情報過多であり、他人の言動に触発されて自動的に溢れ出す自分の思考や感情が心の中を渦巻いてしまい落ち着かない。

刺激的な世界は楽しい。Twitterは飽きさせず脳を休ませる事なく私に快楽を与え続けてくれるのだけれど、ふと気がつくと、とても疲れていたりする。刺激への耐性を獲得し、より強い刺激を求めてスクロールしていることに気づく時のあの虚しさは、離れてから初めて気づくことができる気がする。


心が逸るとき生まれる感情についてしばしば考える。もし仕事の速さを見せつけたい、誰よりも早く話題の作品を読みたいといった第三者からの評価の視線を意識している事に気づいたら「"認められたい"という気持ちが私の中に生まれているだけだから、ゆっくりで大丈夫。」と唱えてみたりする。
勿論場合によるけれど基本的にはQualityとquantityはバランスが大切なのでどちらかに偏らない方がよいと私は考えている。しかし自分の傾向としては短い時間で量を仕上げようというパフォーマンスに傾きがちなので、意識的に雑さを取り除いて丁寧にやっていくのがベストみたいなんだな。
何のために目の前のその仕事をこなしているのか、という目的意識が承認欲求の充足のみに偏らないよう、意図的に自分をハンドリングする。経過のみではなく、成果に対しての承認を獲得することもできるのだということを折に触れて思い出せるような努力をしていきたい。


動物病院に勤めていた時、午前診療と午後診療の合間にスタッフ皆で一斉に10分ほどの仮眠をとるシステムを採用していたせいもあり、今でも少しだけお昼寝をするのが生活の一部になっている。
しかし、「パフォーマンスが上がるから」仮眠をとっていたはずなのに、いつの間にか「仮眠をとらないとパフォーマンスが下がる」になってしまっているのは困ったことですね。
パターンとリズムに支配されてる。

体裁

飽和している湿度の中を泳ぐように歩いている。
初夏と呼ぶには既に手遅れであることに気づかされるほどに、いつの間にか季節の真ん中に放り込まれていた。
なぜ季節も感情も、振り返ってみて初めてそれと気づくのだろう?


先日「なつきさんは温厚そうだから怒っている姿を想像できない」と云われたのだが
「私、自分が怒っているかどうかよくわからないし、わかるまでに時間がかかるみたいなんですよね」という答えを返した。
怒りという感情を抑圧している向きもある。怒らないのではなく、怒っている自分を認めておらず、故にそれを受け入れるまでに時間がかかる。或いは怒りそのものを善くないものであると認識しており、なかったことにしようとしているという傾向も自覚している。
もうひとつに、怒ると冷静さを欠いてしまいがちなので、怒りを一先ず措いておき、情報判断を下してから「これは怒ってよし!」と自分に許可を出す場合もある。

感情を感情のままに処理できない。
他人には統制された自分を見せることしかしたくないのだとも思う。コントロールできていることは格好いいことなんだという呪縛、骨の髄までしみているようだ。
振り返ってみて初めて気づかされる感情、それもまた溺れているようなものなのだろう。
夏の、さなか。


これまでのblog(遊泳)でやりたかったことは一区切りついたので、あちらは閉鎖し、新しくこちら(風鈴)で始める事にしました。
深井さんのblogのおかげで哲学の世界の片鱗に触れることができ、自分のベースとなる考え方が大きな転換を遂げた1年強でした。ここに書いて伝わるかどうかはわかりませんが、とても感謝しています。ありがとうございます。
また、なにより私のTwitterおよびblog記事を気にかけて下さった多くの方々に心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。